プールでのこと

インドのプーナのoshoリゾートでは、

ほぼ毎日プールにはいった。

オリンピックができるような美しいプールを作りなさい

Oshoのその言葉でできたプール。

ものすごくものすごく美しいの。

周りの樹々や鳥、花、ひとびと、

それらもこのプールをより美しくしている。

そして、瞑想がプールにまでしみこんでるかのように、

ほんとに美しいのです。

水もね、普通のプールとは全く違う。

ひつこいけどね、

ものすごくものすごく、

気持ちいい。

特別なプール。

ただ浮いてるだけ、

そんな時間もたくさん過ごした。

太陽がまぶしくて

黄色いお花が散ってて

水の中の静寂

だれかが話してる声

水に浮かんで、

水の中にもぐって

たまらなく大好きな時間だった。

アクアフローティングのセッションもした。

最初はギリと、遊ぶようにセッションしあって

プールでの時間を楽しんでた。

わたしがギリにセッションしてるのを見てたロシア人の女性が、

できれば受けたいのだけど・・

と話しかけられて、

そして彼女とそのボーイフレンドがアクアフローティング初体験。

アメージング。

終わったあと、しばらくは言葉をなくしていたけど、

そう言ってた。

あぁ、あのプールにはいりたい。

いまも書きながら、気持ちよさを思い出す。

あのプールがわたしに染み込んでるんだなぁって感じる。

プールのエッセンスなのか、

プールで起こったことの何か、

なのかもしれないけど。


(2016-05-12 記)



☆マルガのセッション

☆スタジオウーヌスのページ

そんなふうに見ないでよ

ひとから言われる自分の印象というものがあるけど、そこにたくさんのエネルギーをつかってきた。

わたしがよく言われるのは、こわいとか強そうとか喋りかけにくいとか。そうゆうのばかりじゃなかったけど、コワイツヨイコエカケニクイ・・にわたしは大きく反応してきた。


ある時はこわく見られないようにしたし、ある時はその言葉に腹立てて、もっとこわい自分でいようとしたり、とにかくそんなふうにみられるのが気に入らなくてさ。

だれかのわたしを見るフィルターをなんとか変えさせようと、わたしはたくさんのエネルギーをつぎ込んだ。同時に、わたし自身も変わりたかった。

特定の見方をしてくる相手に別のわたしを見せようと言葉や態度をつかい、相手の反応を変えようとした。こわくて強くみられてる自分自身がいやで、別の見られ方を得よう別の評価をもらおうと、ひとからの評価や社会の視点が正しいと思い込んで、わたしは自分自身じゃないものになろうとしてた。


長い間、そんなことをしてたんだけど、それなのに、わたしへの印象が変わらん。

なんで?

それは、わたしの本質をついてるから。

相手の表現する言葉やなんでその表現をするかの原因はおいといて、それがフィルターとして。そのフィルターを外してみると、その視点はわたしの本質をさしているんだろうなと思った。いいとこついてるんじゃないのって。


だから、相手も自分も変えようとしても無駄なわけか。

もうあきらめやー、自分は自分やねんから。


表現方法は気にいらんとしても本質をついてるんやろうなと思いだしたら、相手の言葉にそれほど反応しなくなった。へーと聞けるようになった。

わたしたちは自分たちが普段認識してる以外、もっと全体としての存在だってわかってきたことも、きっと影響してる。

だから、わたしってこんなひとなんですってだれかが言っても、へーって真に受けなくなった。


そんなわけで、わたしは第一印象ツヨイ問題への葛藤がだいぶと減り、楽ちんなのです。

☆マルガのセッション

☆スタジオウーヌスのページ

約束した日

このひと月ほど、あることをずっと迷ってて。決めきれないことがあった。



実際にはすぐに自分のこたえは出てたけど、
あれやこれやをどうしたらいいのか、あれがこれが気に入らないと、決めれなかった。




さまざまな感情、マインドの声、すっかりとのみ込まれ。
いろんな記憶が出てきて、クリーニングもたくさんした。

そしてその大騒ぎしてる後ろに、静かな信頼があった。

けどわたしは感情の中でぐずぐずしてたかった。感情におぼれるのは蜜をあじわってるようでもあるから。そこを通過することでそのままの感情をわたしは安心して感じれるようになるのかもしれない。



そして、今朝、決めた。


もうこのままぐずぐずのまま・・重たい身体と心のままでいるんかな・・とか、好きで溺れてることも忘れ、夜中に目を覚ましたりしてぐらんぐらんと揺れてたけど。けど。


決めたのよ。

その時がやっとやってきた。


ぎゅーって握ってた力のはいった手。

その力がゆるんだのよ。

手放すって大変だね。決めたからって完全にゼロになるまで手放したわけじゃない。けど強く握ってた手をほんの少しでもゆるめること、それはやった人にしかわからない。それは無理矢理にはできない。自分への忍耐と大きな勇気のいること。愛がないと起こらない。

これからもプロセスは続いていく。完璧なゼロを求める自分も、これから起こることも、受け入れていく。受け入れられない時も。また大暴れがきてもわたしはわたしをやる。わたしはわたしをゆるしていく。そんな大きな大きな一歩。

いまめっちゃ軽やか。ハラが決まった。身体も気持ちいい。世界の美しさがもどってきたよ。


おつかれさん!




もうだいじょうぶ。


今日は約束の日。自分と約束して、存在に宣言した。



決めただけ。

のだけど、なんて晴れやかなんでしょう。



さあ、生きよ。新しい世界。



☆マルガのセッション

☆スタジオウーヌスのページ

表現はさまざま

今朝、母の心配性のことを突然思い出した。

わたしたち兄妹に向ける心配。

「大丈夫?」

確認というより疑いのかんじで尋ねてくるように感じるそれ。

ほんとにきらいだった。

ほっとける時もあるけど、うっとおしくて仕方ないこともある。

今朝、その母の心配は母の愛なんやなとおもった。

心配するのは愛じゃない、というひともいる。



けど、今朝わかった。

母の心配は母のわたしたちへの愛なんやと。

その表現方法がわたしが気に入らなかっただけ。

別の方法でやってくれ、別のかたちの愛をくれ、わたしはそう言ってたんやな。

そうだ、わたしは母以外からもそうやって自分の気に入る方法でだけ気に入ったものだけを受け取ろうとしてた。

そんな理解が起こり、自分に起こった出来事や感じてたことなどいろんなものがつながったようなかんじがした。

いままで受け取らなかったものたちが実はずっとどこかで待機していて、それが今朝わたしの元へやってきたような、そんな感覚だった。

身体の緊張がぬけて、力がわいてくるような。

こんなふうに人はさまざまなコントロールをして身体を緊張させてるのね。

わたしは母のそのままの愛を受けとろう。いつもずっとあった愛をしっかりとあびて存分にあじわおう。


いままでにも同じような理解をしてきた。何度も何度もこうやって理解を重ねていくんだろうなっておもう。

内側の火

愛されたことがある人は強いとおもう。

愛してくれた人は肉親じゃないかもしれない。

友人、先生、知り合い、伴侶、大きな存在

血のつながりも、その時間が長い短いも関係ない。

愛された、大切にしてもらった、

それを知ってる人は、

自分のいのちを生きてる。

どんな状況であっても、その経験を知ってるのはわたしたち自身。

愛されたのか、愛されなかったのか。

どこを見るのか。

愛されなかったって、本当?

愛されなかった、愛が足りなかったって言ってる人は、被害者になりたがる。

自分の権威、尊厳を手放す。

自分には力がないのでどうしようもないと思ってる。

すべて、だれかの、なにかの、影響を受ける。

だから、まだ自分のいのちを生きない。

愛されたって思いこむ、っていうのとちがうの。

愛されたことは身体で神経でどこかでちゃんと記憶されてる。

その経験は、わたしたちの中にある。

そこにつながる、思い出すだけ。

それは、

あたたかいやわらかい灯かもしれない、

ぼーぼー燃え盛る炎かもしれない、

人生のいろんな場面で、その灯り、炎、を思い出せないってとき、

そんなときもあるよな。

そして

思い出したら、

その火を内側に感じて自分のいのちを生きる。

愛の目印。

ここですよー、って。

その火は、情熱、エネルギー。

自分で立って歩いて、

そして、誰かと出会って、何かと出合って、

愛がいろんなかたちで起こる

そして、そこからなにかが生まれる。

わたしは知らない、愛ってなんなのか。

けど、体験してる。

(2016.03.08 記)

享受する

今日はOSHOのエンライトメントデイ。
神秘家OSHOが悟りを開いた日。OSHO21歳のとき。

お祝いと感謝をこめて、朝、ナーダブラーマ瞑想をした。



ナーダブラーマはチベットの寺院で早朝に行われていた瞑想のひとつだとか。

早朝、まだ暗い静かなそのとき、僧侶たちのハミングが寺院から聞こえてくる、

そんな光景を思い浮かべるだけで、美しくてうっとりする。






最近この瞑想法がとても好き。

最初の30分、ハミングをする。

そのハミングがわたしの中でひろがっていく。

トーンによってバイブレーションがいろんなところで起こる。

いつのまにか隅々まで拡がってる。

ほかの人と一緒にすると、共鳴がおこる。

またそれも気持ちいい。

次の7分半、

手のひらを上にむけ、

おへそあたりから前に向かって両手をそれぞれ外に向かって円を描くように

手が動くのにまかせる。

わたしのエネルギーを宇宙へと与える。

次の7分半、

手のひらを下に向け、

おへそから逆方向に動くにまかせる。

エネルギーを受け取る。

最後の15分、

静かに坐るか、横になる。




与える、というとき、わたしにはいつも緊張があった。

わたしは与えるもの、持ってるのかな。

わたしのもの、だれか受け取ってくれる人がいるんだろうか。

これ、満足してもらえるのかな。

与えてしまったら、わたしのものが無くなってしまう。

そんなあれこれ。



前回したナーダブラーマでのこと。

ハミングが終わり、第2ステージでの与えるとき、

わたしはおへその前に手を上に向けて、しばらくそのままでいた。




そうしたら腹の奥の方から、

ぐーっと、静かだけど、ものすごく力強い、

喜びのようなものが、押し寄せてきた。


それはこみ上げてきて、

涙がこぼれた。



与えることへのものすごく大きな喜び、歓喜があって、

与えるも受けとるもない、同時に起こってる。

与えることも受けとることもおなじ。巡ってる。




そして手が動き出し、与えていくことで、

世界がどんどん明るくなっていった。

光がひろがっていった。すごく美しかった。




受けとるステージのとき

わたしたちがすでに受けとっている生命、

それぞれの個性、才能、すべてを、ただ楽しむこと。

享受。

だれかのものを羨ましがらなくてもいいし、

自分が受けとりすぎだと心配する必要なんてない。


そんなことを感じた。



わたしの中に与える喜びがあった。

それは喜びという言葉だけでは表現しきれないもので、

思い出すと、涙がでてくるぐらい美しいもの。


以前からあるけど、それはとてもニューな出合いでした。






享受とは、

受け入れて自分のものとなること

受け入れて、味わい楽しむこと



(旧ブログより 2016.3.21)

本当に自由になりたいの?


いままで好きになった人たちに共通点があることに気づいたのは、
年末にしたノーマインド瞑想のとき。




彼らは、日本になじめなかった人たち。
日本というのか、社会というのか。



わたしにもおんなじ想いがあった。

昔からいつもどこか外へ行きたかった。
自由になりたかった。



お母さんがいなくなったら外に出よう。

そう思ってた。

母の存在はとても大きかった。

それはわたしを苦しめてたことも多い。




でも、
母がいなくなったら・・・って。


ひどいなー、
お母さんのせいにするなよ。

いつでもどこでも自由になれるのに。

(旧ブログより  2016-02-18記 )



スタジオウーヌス


あなた自身とつながるセッション

森があった

ウーヌスの裏には森があった。


大きな敷地にたくさんの木が茂っていて、毎日毎日、葉っぱの音と鳥がたくさん歌ってた。その敷地の真ん中あたりにお家が建っていたけど、見えない。それほどの木。


都会にこんな場所があるなんて。

来る人たちはみんな驚いて喜んだ。



そして誰よりもわたしたちはこの場所が大好きだった。

いつもこの森から滋養を得ていた。





いま、森はなくなった。

マンション建設中。


ほとんどの木は切られた。

わたしは森がつぶされていくことに、木が切られることに心が痛くてしょっちゅう泣いた。

ありがとう

ごめんなさい

ゆるしてください

あいしています





愚かなことを目の前にすると、もっともっと賢くなりたいっておもう。

わたしの中に眠ってる知恵がまだあるはず。

急がないと、とおもってしまう。





目の前のことに、嘆くだけじゃなくて怒るだけじゃなくて、見ないふり感じてないかのようにふるまうんじゃなく、実際に自分ができることをする。



わたしのしあわせが、だれかの、すべての存在の、世界の、宇宙のしあわせでありますように。

スタジオウーヌス

あなた自身とつながるセッション

お盆の夢

夢をみた。


わたしは昔の実家にいた。工場を営んでいたから、玄関入るとすぐ左手が事務所。正面は駐車スペースで、父が使っていた配達用の車があった。シルバグレーのバン。

そのバンを見た瞬間、ああ、お父さんが乗ってたやつ、と久しぶりに見て懐かしくてうれしかった。夢の中でも父はもうすでに亡くなっていた。


母の姿は見えないけど、掃除をしている。毎年恒例の年末の大掃除みたいなかんじ。

家の空間が、大掃除の後みたいな清浄なエネルギーになっててとっても気持ちいい。


父のバンの後ろに3台ほど車が駐車してある。古い小さい車。フィアットのマーク。それが2台続いて、その後ろに昔の自転車みたいなの。

いままでの歴代のものが並んでる、そんな印象を受けた。


外へ出ると、近所の家々も掃除をしてる。町中がそうゆう季節、掃除をする時期というかんじ。

たくさんのゴミが出されてて、ごみ収集がくるのを待ってる。



わたしは家を出て、駅へ向かう。

ホームで電車を待ってるけど、本当にこのホームで電車を待ってて来るんやろうかときょろきょろしてたら、隣のホームに電車が停まってる。その電車は普通電車。

わたしが待っているのは、特急電車専用のホームだった。だったらわたしはここで間違いない、特急電車に乗るから。




そして目が覚めて、その夢のメッセージを感じたら、そうかお盆やもんなぁと納得。


7月末あたりから咳が出てとまらなかった。約2週間ほど。夜も眠れない日が続いた。セッション中だけはなぜか咳が止まって有り難かった。

久しぶりに病院に行った。本当に普段行かないんだけど、それぐらい身体が辛かったから。漢方専門の内科。おもしろい先生。漢方を飲んで、普段摂っているあれこれについてアドバイスしてもらう。

先生のそのアドバイスはわたしに合ってたようで、身体にいろんな変化が起こってる。わたしにとっては摂りすぎるとよくないものがわかってよかった。


先生曰く、

日常よ!日常。それがだいじ。

ですよね~、先生。

スタジオウーヌス Studio UNUS

つながるセッション

雷、そして満月。

夜中なのか朝方なのか、雷がなりひびいてた名古屋。大きな音で目が覚めて、しばらく音と振動を感じながら。死と生。特別に変わりない毎日を送ってるようにみえる日常で、どこかでだれかの大切なひとが死んで、同じ瞬間にもどこかでひとが産まれてる。

その命は待ち望まれてたものも、歓迎されずにきたものも、しあわせだったものも、うまくいかなかったものも、そのドラマから抜けると、その存在は愛されて望まれて必要だからこの世界にいた。それは間違えようがないらしい。

なんてわたしたちはかわいいかわいい愛しい存在なんやろう。

そういえば、父のお葬式の日もはじめ土砂降りで途中でからっと止んだんたった。

自分の中のなにかも死んで、深いところにいてそこから現れることを諦めなかったものが生まれてくるような気がした象徴的な雷、そして満月。