約束した日

このひと月ほど、あることをずっと迷ってて。決めきれないことがあった。



実際にはすぐに自分のこたえは出てたけど、
あれやこれやをどうしたらいいのか、あれがこれが気に入らないと、決めれなかった。




さまざまな感情、マインドの声、すっかりとのみ込まれ。
いろんな記憶が出てきて、クリーニングもたくさんした。

そしてその大騒ぎしてる後ろに、静かな信頼があった。

けどわたしは感情の中でぐずぐずしてたかった。感情におぼれるのは蜜をあじわってるようでもあるから。そこを通過することでそのままの感情をわたしは安心して感じれるようになるのかもしれない。



そして、今朝、決めた。


もうこのままぐずぐずのまま・・重たい身体と心のままでいるんかな・・とか、好きで溺れてることも忘れ、夜中に目を覚ましたりしてぐらんぐらんと揺れてたけど。けど。


決めたのよ。

その時がやっとやってきた。


ぎゅーって握ってた力のはいった手。

その力がゆるんだのよ。

手放すって大変だね。決めたからって完全にゼロになるまで手放したわけじゃない。けど強く握ってた手をほんの少しでもゆるめること、それはやった人にしかわからない。それは無理矢理にはできない。自分への忍耐と大きな勇気のいること。愛がないと起こらない。

これからもプロセスは続いていく。完璧なゼロを求める自分も、これから起こることも、受け入れていく。受け入れられない時も。また大暴れがきてもわたしはわたしをやる。わたしはわたしをゆるしていく。そんな大きな大きな一歩。

いまめっちゃ軽やか。ハラが決まった。身体も気持ちいい。世界の美しさがもどってきたよ。


おつかれさん!




もうだいじょうぶ。


今日は約束の日。自分と約束して、存在に宣言した。



決めただけ。

のだけど、なんて晴れやかなんでしょう。



さあ、生きよ。新しい世界。



☆マルガのセッション

☆スタジオウーヌスのページ

表現はさまざま

今朝、母の心配性のことを突然思い出した。

わたしたち兄妹に向ける心配。

「大丈夫?」

確認というより疑いのかんじで尋ねてくるように感じるそれ。

ほんとにきらいだった。

ほっとける時もあるけど、うっとおしくて仕方ないこともある。

今朝、その母の心配は母の愛なんやなとおもった。

心配するのは愛じゃない、というひともいる。



けど、今朝わかった。

母の心配は母のわたしたちへの愛なんやと。

その表現方法がわたしが気に入らなかっただけ。

別の方法でやってくれ、別のかたちの愛をくれ、わたしはそう言ってたんやな。

そうだ、わたしは母以外からもそうやって自分の気に入る方法でだけ気に入ったものだけを受け取ろうとしてた。

そんな理解が起こり、自分に起こった出来事や感じてたことなどいろんなものがつながったようなかんじがした。

いままで受け取らなかったものたちが実はずっとどこかで待機していて、それが今朝わたしの元へやってきたような、そんな感覚だった。

身体の緊張がぬけて、力がわいてくるような。

こんなふうに人はさまざまなコントロールをして身体を緊張させてるのね。

わたしは母のそのままの愛を受けとろう。いつもずっとあった愛をしっかりとあびて存分にあじわおう。


いままでにも同じような理解をしてきた。何度も何度もこうやって理解を重ねていくんだろうなっておもう。

内側の火

愛されたことがある人は強いとおもう。

愛してくれた人は肉親じゃないかもしれない。

友人、先生、知り合い、伴侶、大きな存在

血のつながりも、その時間が長い短いも関係ない。

愛された、大切にしてもらった、

それを知ってる人は、

自分のいのちを生きてる。

どんな状況であっても、その経験を知ってるのはわたしたち自身。

愛されたのか、愛されなかったのか。

どこを見るのか。

愛されなかったって、本当?

愛されなかった、愛が足りなかったって言ってる人は、被害者になりたがる。

自分の権威、尊厳を手放す。

自分には力がないのでどうしようもないと思ってる。

すべて、だれかの、なにかの、影響を受ける。

だから、まだ自分のいのちを生きない。

愛されたって思いこむ、っていうのとちがうの。

愛されたことは身体で神経でどこかでちゃんと記憶されてる。

その経験は、わたしたちの中にある。

そこにつながる、思い出すだけ。

それは、

あたたかいやわらかい灯かもしれない、

ぼーぼー燃え盛る炎かもしれない、

人生のいろんな場面で、その灯り、炎、を思い出せないってとき、

そんなときもあるよな。

そして

思い出したら、

その火を内側に感じて自分のいのちを生きる。

愛の目印。

ここですよー、って。

その火は、情熱、エネルギー。

自分で立って歩いて、

そして、誰かと出会って、何かと出合って、

愛がいろんなかたちで起こる

そして、そこからなにかが生まれる。

わたしは知らない、愛ってなんなのか。

けど、体験してる。

(2016.03.08 記)

享受する

今日はOSHOのエンライトメントデイ。
神秘家OSHOが悟りを開いた日。OSHO21歳のとき。

お祝いと感謝をこめて、朝、ナーダブラーマ瞑想をした。



ナーダブラーマはチベットの寺院で早朝に行われていた瞑想のひとつだとか。

早朝、まだ暗い静かなそのとき、僧侶たちのハミングが寺院から聞こえてくる、

そんな光景を思い浮かべるだけで、美しくてうっとりする。






最近この瞑想法がとても好き。

最初の30分、ハミングをする。

そのハミングがわたしの中でひろがっていく。

トーンによってバイブレーションがいろんなところで起こる。

いつのまにか隅々まで拡がってる。

ほかの人と一緒にすると、共鳴がおこる。

またそれも気持ちいい。

次の7分半、

手のひらを上にむけ、

おへそあたりから前に向かって両手をそれぞれ外に向かって円を描くように

手が動くのにまかせる。

わたしのエネルギーを宇宙へと与える。

次の7分半、

手のひらを下に向け、

おへそから逆方向に動くにまかせる。

エネルギーを受け取る。

最後の15分、

静かに坐るか、横になる。




与える、というとき、わたしにはいつも緊張があった。

わたしは与えるもの、持ってるのかな。

わたしのもの、だれか受け取ってくれる人がいるんだろうか。

これ、満足してもらえるのかな。

与えてしまったら、わたしのものが無くなってしまう。

そんなあれこれ。



前回したナーダブラーマでのこと。

ハミングが終わり、第2ステージでの与えるとき、

わたしはおへその前に手を上に向けて、しばらくそのままでいた。




そうしたら腹の奥の方から、

ぐーっと、静かだけど、ものすごく力強い、

喜びのようなものが、押し寄せてきた。


それはこみ上げてきて、

涙がこぼれた。



与えることへのものすごく大きな喜び、歓喜があって、

与えるも受けとるもない、同時に起こってる。

与えることも受けとることもおなじ。巡ってる。




そして手が動き出し、与えていくことで、

世界がどんどん明るくなっていった。

光がひろがっていった。すごく美しかった。




受けとるステージのとき

わたしたちがすでに受けとっている生命、

それぞれの個性、才能、すべてを、ただ楽しむこと。

享受。

だれかのものを羨ましがらなくてもいいし、

自分が受けとりすぎだと心配する必要なんてない。


そんなことを感じた。



わたしの中に与える喜びがあった。

それは喜びという言葉だけでは表現しきれないもので、

思い出すと、涙がでてくるぐらい美しいもの。


以前からあるけど、それはとてもニューな出合いでした。






享受とは、

受け入れて自分のものとなること

受け入れて、味わい楽しむこと



(旧ブログより 2016.3.21)

自然な姿

2週間のギリシャでのリトリートのあと、パリで1週間滞在して、数日前に日本へ戻ってきた。






ひと月ぶりの銭湯!ああ、たまりません。お風呂好きでよかった、と湯船につかりながらしみじみ。


銭湯ってほんとに平和なんよな。みんなそれぞれのやり方で洗ったりこすったり。みんな裸。隠したり、隠さなかったり。

大好きな場所のひとつ。






ギリシャのリトリートでアクアフローティングするビーチにはヌーディストビーチがあって。

リトリートに参加するひとの中には、それを楽しみにしてるひともいる。


ここも好きな場所のひとつ。




海の中の裸も気持ちいい。





裸は自然。わたしたちそれぞれの形。そのひとがそうである様子。

だからその人にぴったりに創られてる。あなたという存在がその姿かたちを選んできた。

その人として一番自然にできている、本来は。




だから裸から水着をつけるとおかしな気分になるんだよね。

あれ?みたいな。


自然じゃないから、違和感が出てくる。


で、なんか照れたりする。服を身に着けると社会性も一緒に着てしまうのかな。


いままで裸で子供のときみたいに遊んでたのに、いきなり距離ができてしまうかんじ。


おもしろいなって思う。






裸は気持ちいいって話。