享受する

今日はOSHOのエンライトメントデイ。
神秘家OSHOが悟りを開いた日。OSHO21歳のとき。

お祝いと感謝をこめて、朝、ナーダブラーマ瞑想をした。



ナーダブラーマはチベットの寺院で早朝に行われていた瞑想のひとつだとか。

早朝、まだ暗い静かなそのとき、僧侶たちのハミングが寺院から聞こえてくる、

そんな光景を思い浮かべるだけで、美しくてうっとりする。






最近この瞑想法がとても好き。

最初の30分、ハミングをする。

そのハミングがわたしの中でひろがっていく。

トーンによってバイブレーションがいろんなところで起こる。

いつのまにか隅々まで拡がってる。

ほかの人と一緒にすると、共鳴がおこる。

またそれも気持ちいい。

次の7分半、

手のひらを上にむけ、

おへそあたりから前に向かって両手をそれぞれ外に向かって円を描くように

手が動くのにまかせる。

わたしのエネルギーを宇宙へと与える。

次の7分半、

手のひらを下に向け、

おへそから逆方向に動くにまかせる。

エネルギーを受け取る。

最後の15分、

静かに坐るか、横になる。




与える、というとき、わたしにはいつも緊張があった。

わたしは与えるもの、持ってるのかな。

わたしのもの、だれか受け取ってくれる人がいるんだろうか。

これ、満足してもらえるのかな。

与えてしまったら、わたしのものが無くなってしまう。

そんなあれこれ。



前回したナーダブラーマでのこと。

ハミングが終わり、第2ステージでの与えるとき、

わたしはおへその前に手を上に向けて、しばらくそのままでいた。




そうしたら腹の奥の方から、

ぐーっと、静かだけど、ものすごく力強い、

喜びのようなものが、押し寄せてきた。


それはこみ上げてきて、

涙がこぼれた。



与えることへのものすごく大きな喜び、歓喜があって、

与えるも受けとるもない、同時に起こってる。

与えることも受けとることもおなじ。巡ってる。




そして手が動き出し、与えていくことで、

世界がどんどん明るくなっていった。

光がひろがっていった。すごく美しかった。




受けとるステージのとき

わたしたちがすでに受けとっている生命、

それぞれの個性、才能、すべてを、ただ楽しむこと。

享受。

だれかのものを羨ましがらなくてもいいし、

自分が受けとりすぎだと心配する必要なんてない。


そんなことを感じた。



わたしの中に与える喜びがあった。

それは喜びという言葉だけでは表現しきれないもので、

思い出すと、涙がでてくるぐらい美しいもの。


以前からあるけど、それはとてもニューな出合いでした。






享受とは、

受け入れて自分のものとなること

受け入れて、味わい楽しむこと



(旧ブログより 2016.3.21)