今朝、母の心配性のことを突然思い出した。
わたしたち兄妹に向ける心配。
「大丈夫?」
確認というより疑いのかんじで尋ねてくるように感じるそれ。
ほんとにきらいだった。
ほっとける時もあるけど、うっとおしくて仕方ないこともある。
今朝、その母の心配は母の愛なんやなとおもった。
心配するのは愛じゃない、というひともいる。
けど、今朝わかった。
母の心配は母のわたしたちへの愛なんやと。
その表現方法がわたしが気に入らなかっただけ。
別の方法でやってくれ、別のかたちの愛をくれ、わたしはそう言ってたんやな。
そうだ、わたしは母以外からもそうやって自分の気に入る方法でだけ気に入ったものだけを受け取ろうとしてた。
そんな理解が起こり、自分に起こった出来事や感じてたことなどいろんなものがつながったようなかんじがした。
いままで受け取らなかったものたちが実はずっとどこかで待機していて、それが今朝わたしの元へやってきたような、そんな感覚だった。
身体の緊張がぬけて、力がわいてくるような。
こんなふうに人はさまざまなコントロールをして身体を緊張させてるのね。
わたしは母のそのままの愛を受けとろう。いつもずっとあった愛をしっかりとあびて存分にあじわおう。
いままでにも同じような理解をしてきた。何度も何度もこうやって理解を重ねていくんだろうなっておもう。