普通であることーわたしとつながる

毎日の中にすべてのことはある。
気づきも神秘も思い込みも感じることも愛も。

ぱっと現実が変わること。マジカルな変化。
今の状況が気に入らないからさっと思ったように変わってほしい 。
それはみんながどこかで望んでいること。
毎日の中、日々の中に、やってくる突然のマジカルな変化。


奇跡が起こってほしいなら、 それはやはり日々の営みを全身で生きること。
そう言うと、がっかりするひとが多いのだけど・・。

もっと、ぱっと、さっと、って方法ないの?

わたしは知らない。



Oshoはトータルでいなさいと言う。



五感で、意識を拡げて、わたしという存在すべてで日常をあじわうこと。それが奇跡を知るプロセス。
けれど、それはある意味とても地味なことだ。



自分のやっていることにしっかりと意識を向け、
些細かもしれないことに愛を注ぎ、
自分の仕事にエネルギーを込めて、
なんの役にも立たないかもしれないただ好きなことをし続けることを自分にゆるし、
肉体をケアし、
精神に栄養を与え、
ひととの関わりの中で葛藤が起き理解がうまれ、
別れて出会い、
大切なひとに注意を向け声を聴き触れ、
遠くに暮らす愛するひとたちの笑顔を想い、
大切な自分に愛を伝える。


いまがどんな時代であっても、自分がどんな場所にいても、
毎日、自分が大切だと感じることにエネルギーをつかうこと、
目の前にあることを大切にしてプロセスをあじわうこと。
それが祈り。
目を閉じてじっと願うのではなく、その態度が世界への貢献。



ごはんをつくる、食べ飲み、片づけ、仕事、お店でものを買うやりとり、歩く、目を合わせる、話す、おしっこうんち、触れ合うこと、呼吸、感情、 日常の中で、繰り返している起こっているさまざまなこと。

それはいつも同じではないことに気づいてるかな。



自分の体調・気分が毎日ちがうことに気づくこと。
その安定していない自分を知ることはすごく大切なことだとわたしはおもう。
安定してないことが当たり前に自然なことだと。


小さいころから安定=変わらないことを求められてきた。
家庭で学校で仕事場で。
そこはそのための訓練の場だった。
安定していないのはなにかが足りないからだと。
知性、忍耐、注意力、規律、競争。
いまも多くのひとは安定を求めて、職場を決め、居心地の悪い居場所を出れず、心を閉じ込めてる。安定ってほんとにあるの?



わたしたちは不安定の中にいる。
今この状況がというのではなくて、今も以前もこれからも。
moment to moment


変わること、それは別の言い方をすれば不安定とも言えるけれど、それが自然。

自然は変わっていく。自然で変わらないものはない。
木、生きもの、水の流れ、雲、自然はどんどん変わる。わたしも自然。

コンクリートとかプラスティックとかアンチエイジングとか、変化を遅くさせること、そうゆう目的で人工的なものはつくられる。




普通であること 
ordinarity

特別になりたいひとたちは普通が好きじゃない。


普通の日常、
そこが実は特別なすごい場所だと体験することは、
自分が今ここにいることの奇跡を知ること。


アタマであれこれ考えて情報をたくさん収集することの方が遠回りだよ。

五感が開いてくると直感はどんどん冴えてくる。
自分で感じて決めて動けるようになる。
自分にとって正しい時に正しい場所で正しいことが起こっていることがわかるようになる。
自分とつながるってそうゆうこと。







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サイキックマッサージ


Path of life パスオブライフセッション(旧つながるセッション)


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表現とは受け容れること

朝、ギリがわたしのブログを読んだ感想を話してくれた。
よくくれる。
感想を言ってくれるのは、彼になにかが届いたとき響いたとき。
だからその感想をきくのはおもしろいしうれしいし、異なる視点に感心したり、有り難いしあわせなこと。




表現すること、身体を動かすこと、
これがわたしの心身の健やかさを保つのにかかせない。
そして瞑想。
わたしにとって、表現するというのはこころが動くことの結果のようなもの。
こころが動くから表現が起こる。




これらはわたしの健やかさだけでなく、おそらくほとんどのひとたちにとって自分を健やかにする栄養になる。





わたしの中からこれらが薄まってしまうと、めっちゃ調子がわるい。元気から離れる。

すると、ケンカをふっかけまくるわ、ウツウツとなるわ、食べ過ぎるわで、表現されなかったエネルギーが出る場を求めてこんなふうな表れ方をする。
すんごーく疲れる、知ってる人も多いだろうけど。
使ったエネルギーの倍以上のものが出て行くような体感。

そして逆にここに居続けてしまうということがある、いたくないと思いながらも。
それは、本来のものー健やかさーからズレているから、ここから出るエネルギーが足りなくて、留まってしまうのかもなとおもう。


元気のエネルギーをとり戻すのは、かなりのパワーがいる。
自分がいたくないここから離れるという決意がいる。
決意するということ自体がパワー。

これ、ヒーリングのプロセスとおんなじだな。

変わる、変わりたいという決意が最初にある。
肉体であれ、人生であれ。もうこれ以上うんざりだ!って。
ここでパワーとつながれた。内にあったパワーと。
そして本当へ向かっていく。
治癒にいたるまでの道。




変わるという決意・勇気、身体に意識を向け声を聴き、こころマインドに目を向け、食べ方を見直したり、いままではちがう物事のとらえ方も必要となる、自分という存在に目を向けなにかに気づく必要がある。治癒が起こるにはある程度の時間もいるだろう。

ある面、ヒーリング・癒しというのはだれかにしてもらうことではなく、自分で変わることを決めて、だれかのサポートを受けながら、気づいて、それを実行していくということ。
いままでの習慣を変えていくということ。いままでのその習慣はあなた本来のものとは離れているということだから。


だからね、健やかでいるのはとても大切。
それがわたしたちそれぞれの責任だと内側からの理解が起こるとすれば。


健やかでいることは、わたし自身の為であり、パートナーや家族のためにもなり、自分のいる場所のためにも、世界平和にも貢献する。



自分を癒すことはほんとに大きなことなんだよな。



その癒しのプロセスにおいて、表現はすごくパワフルにはたらく。

そのままに純粋なままに表現が起こることのパワフルさはそれが与えるインパクトは言葉では表しきれない。



そして誤解されやすいのだけど、そのままに純粋なままの表現というのは、すべてが心地いいとは限らない。

心地悪いを感じてそれを表現しようとはなかなかしない。

なんかね、みんないわゆるポジティブが好きなんだ。だから、いろんなことを無意識に良い方向へと向かわせようとする。
結末を納得いくものにしたがる。納得いくものとは、あやふやでなくて、もやもやではなくて、すっきりしたもの。
結果、良かったです!みたいな。

おいしいもの食べたときの、しあわせとか、
あたたかい湯船に入ったときの、んあああーだとか、
言いたいことが言えない、ううう・・だとか、
だれかに話し、色で表し、思わずくそーっと声が出て、
ごはん作って、木に触れて。

そのまま感じるまま動くまま表れるまま。




表現というのは、いまここの状況も感覚も感情もある物も起こることも、すべてを受け容れてるということなんだ。


そのまま感じたままを表してみること。うまいこと書く、綺麗に描く、褒められるように、そうしたいのを横において。そのまま、あなたに今あるまま。

それに身を任せれば、癒しは自然と起こる。表現の本来のパワーが顕れる。





この居心地の良さこの不快さ・・なにが起こっているとしても、
意識を拡げ、ハートを開きハラを感じ、自分を開いて、
今あるすべてをぜんぶ感じる。
そのままをそのままとして。


それはすべて一旦自分の中へそれらが入ってくるのをゆるすということ。

自分を通じて、入れて出ていく。
そう、呼吸のように。



自分という存在全体で受けいれたものを自分という存在全体で表す。
生きてる実感。 いのちが動いてる。







1/24日曜
Be still and know ニュートラルワークショップ

身体をもつすべてのひとに体験したもらいたい!
あなた自身の在り方、ひととの関わり方、あなたと宇宙(存在)、
きっとなにかあなたにとって大切なものを受けとるでしょう。


マルガの提供するセッション
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自分の仕事がある

母方の祖父はとても賢い人でした。
働いてお金を稼いで家族を養うということはできませんでした。
ひとに雇われるとか自分の時間や労力をお金に替えるということが全くできなかったと。
これは母がわたしにした話。

そんなでわたしの母は金銭的にとても貧しい家庭で育った。
わたしは母からそんな話をたくさん聞いた。

母の祖父への尊敬と内に秘めた軽蔑。
祖父が稼がなかったということ、
同時に祖父が智慧を惜しみなく多くのひとに使っていたということ。


わたしの祖父のイメージは、墨をすっている姿、筆でなにか書いている姿、漢方薬の匂い。白いシャツ。 穏やかで静かな雰囲気。



母から刷り込まれた祖父の生き方へのわたしの観方が、ある時変わった。

それはわたしが仕事というものに対しての観方が変わったことも大きく影響してる。



あるセッションでわたしは母方の祖父の思い込みを受け継いでいると言われたことがある。いままで祖父はわたしにとってそれほど近い存在ではなかったから意外だった。
その思い込みは、「ひとには分かってもらえない」
自分の知恵は普通一般の人にはそうそうわかるまい、というようなもの。
!!んまあなんと傲慢な。
けど、その頃なんかその感覚はとても馴染み深かったんだよね。




わたしの祖父と祖母、子供たちは逃げるようにして韓国の済州島から日本へやってきた。母が生まれる前。済州島ではその村では初めて運動靴を履いたひとで、教育を受けていて、跡取りとして大切に育てられた。

その恵まれた環境から、ほとんどなにも持たずに来た。

祖母が子どもたちを育てるために働いた。

稼ぐことはできなかった祖父だけど、たくさんの同胞に頼りにされていたらしい。
字の読めない多くの人たちは祖父に字を読んでもらい書類を書いてもらった。子供の名づけを手伝ってもらった。智慧のある祖父にいろいろな相談をしにきた。父方の祖父もその祖父のことが自慢だったそう。


祖父は自分の仕事をしていたのだ。


お金を稼ぐことはすごいことだとおもう。それが得意なひともいれば得意じゃないひともいる。いろんな所で何桁稼いだという話やお金とは感謝や愛のあらわれだと稼ぐことはスピの高さのようにも言う。


お金がないのは貧しいとわたしたちの多くは思い込んでいる。
貧しいことは恥ずかしいことだと。お金と豊かさと貧しさがつなげられて考えられてる。
少なくともわたしはそう思って生きてきた。祖父のこともそうゆう目で長い間見ていた。


豊かさ
しあわせ
満足

自分にとってそれらはどうゆう状態なんだろう。

それを見直すのに今のこの世界はほんとにいい場所だとおもう。



ひとにはそれぞれの、そのひとだけの仕事がある。


世間でいう失敗や成功の判断を持ち込めない、義務や責任を超えた場所。

どうしてもやらなくちゃいけないこと。
したくてどうしようもないこと。
あきらめきれないこと。
なにかに急き立てられるように衝動として。
否応なく自分の元にやってくることとして。

わたしにもあなたにもある。



あるとき教えてもらった。

智慧というのはそれを分かち合うひとの元にやってくると。
自分だけのものに独占しようとする人にはそもそも智慧はやってこない。

やってくるという表現をしているのは、ほんとに存在から降りてくるから。

それを分かち合える人の元へやってくる。
智慧はこの世界に必要だから。
それを必要としている人・物・場があるから。

それを仕事という。

わたしだけの仕事がある。

あなただけの仕事がある。



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1/24(日曜)
ニュートラル・ワークショップーBe still and know


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タイミングって?

髪が切りたくなった。もう今すぐに切りたい!から電話したけど予約がすぐにとれなかった。
予約まであと3日もある。。。


当日にセッションの予約をいただくことがたまにある。時間さえ空いていればわたしの方はウエルカム。
わたし自身も、なんとなくとかふととかピンときたとかで動くことも多いから、その急なオファーにタイミングが合い、セッションできた時はよかったなとおもう。


タイミングというワードが出た。
タイミングをやたらと気にするひとがいる。なにかがすんなりといかないと今はタイミングじゃなかったと言う。すんなりってどうゆうの?ドラマティックな起こり方が好きなんだろう。一歩を踏み出すのが怖いんだろう。タイミングを言い訳につかうぐらいのものならば、起こらなくてもいいんだろう。

新月の日とか縁起のいい日とか、それも楽しいけれど、
運試しみたいなことで自分の運を計るのはやめて、
やってみたいとひらめいたことは、いま、何度でも、トライしてみよう。

どんなタイミングであれ、すべて最善。なのであれば、言い訳してたって最善なんだけど。
でもちょっと感じてみて。言い訳ばかりしてるとだんだん自分をイヤになってこない?言い訳ばかり言うひとの話聞きたくないよ。



自分のことをイヤって感じるようなことはなるべくしない、
それは最低限のセルフケア。

自分のことを受け容れにくいというなら、自分を嫌ってしまうようなことをまずやめていく。そしてね、あまりに品行方正だと自分のことをなかなか好きになれない。それは守らなければいけないルールがたくさんある。自分に課してるものが多すぎるから。



一生懸命なひとって美しい。
トライできるものがあるっておもしろい。
やりたいことやっていこーぜー。


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1月24日(日曜日)
ギリが「ニュートラル」をテーマにしたワークショップをします。
ボディワーカー、セラピスト、人と関わる人たちには必須のテーマだとおもう。
瞑想をしたいというひとにも!
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感じて決めて動く

2021年、あけましておめでとうございます。
こころからだすこやかに。
わたしたちの美しさがこの世界を創っていること、その魂の灯がこの世界のすべてだということ、みんながその灯を受けとり灯し続けると約束して今ここにいること、いのちを生きよう。



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感じて決めて動く

それは、
自分が感じたことを、
そこから選択して、
実際にやってみる
ということ。

生きていく最強の知恵が自分にあるのだとしたら。

感じて決めて動く
わたしたちに必要な土台となるものだとおもう。



感じるってどうゆうこと?
感情ってなに?喜怒哀楽のこと?
これらになにか難しさを感じている、 ということなので、
今日はそれについてマルガが感じてることを書いてみる。


感じることを言葉であらわすということは、感じることを考えてるというような矛盾があるけども。感じたようにできるかしら。


まず、 考えるということ。
考えるはアタマ、マインドから出てくる。
それはほぼ自分のものじゃない。
親、教師、世間、マスコミ、本、無意識に受けとった情報。
あれは正しい、あれは間違い、あれはああゆうもの。
ほとんどのひとが、本には正しいことが書かれていて、マスコミは正しいことを報道していて、成功者は人間として素晴らしくて、男はこうで女はああで、高次元が低次元が・・となんとなくどこかでそうだと言われていることをそのままそうだと思っているふしがある。

親や社会に違和感や反発を感じながらも無意識に親や社会の考えを元に生きてる。
サブリミナル効果みたいに刷り込まれて自動操縦。
洗脳とも言えるかもしれないそのそれは、はっきりとYESとNOと標識があり、すすむべき正しい道があり、行ってはならない間違いの道があり、多くのひとが標識通りにすすんでいるからごっついぶっとい轍ができていて、まるで舗装されているアスファルトの道。安全な道と思われている。


そして、 感じるということ。
まず、感じること自体、パーソナルなこと、オリジナル。
みんな感じ方がちがうんだよ。思考が強いひとは感じ方にも順序とゴールがあるように思ってるけど、みんな本当にちがうんだよ。
同じ場面でもあるひとには強い感情がわくけれど、あるひとには居心地の悪さを感じるかもしれない。こうだからこう、というものはない。

もし道に例えるとすれば、轍なんてない。だれも同じところを歩かないから。真っ暗な場所で自分の感覚という灯りを頼りにすすむようなもの。「こう感じたんですけど、合ってますか?」と尋ねてもだれも正解を知らない。だからあなたの内側に聴くんだよ。感じるというツールを使って。だれかに任さないで自分で。そのツールはみんなに与えられてる。身体の感覚、感情、直感を通して。そしてその感じて決めて動いたことは正しい。それはあなたの感じたことが正解で目の前のひとの感じたことは不正解ということではなく。間違いようのない世界。感じる世界の道は二つに分かれてはない。

いままで思考で物事をすすめてきたひとには、感じることは不安定にみえ不快かもしれない。ファジーだし。 保障もない。けど、マインドの世界にも保障なんてない安全でもない。ただサバイブの感覚に鈍くなってるだけ。

そして感覚を意識的につかってこなかったのだから、感じるということがつかめない。そう、つかもうとする。
アタマの習慣で、感じるをしようとする。
そして余計に自分の感覚を信じられない。これ、感じれてないんじゃない?って。

感じれてないのではなくて、いま感じてることを意識にとらえてないだけなのでは?いままでの人生でピンときたことや、ふと感じたことを、感覚にしたがってすすんできた経験はあるはず。
意識がマインド、考えるときの位置にあると、それはとらえられない。
アタマではなく身体で起こってるから。

感じるというのはとっても心許ないかんじなのです、最初は。 名前もつかない、カテゴライズできないもの。 いままでとは異なる場、ツールなのだから。


決定的にちがうのは、アタマの世界は、外側に正解があってそれを内側に取り入れる。内側を矯正する。
感じる世界は、内側(身体・感覚・感情・直感)で起こったことを外へ表現する。方向が逆。


ごはん食べてて、お風呂入ってて、つまんなくてネットサーフィンしてて、これ読んでて、
それぞれのとき、その今していることを本当に体験してる?
五体満足だから、見える聞こえる味わえるわけではないのよ。
ごはん食べるとき、ほんとに食べてる?
考え事してない?なにか観ながら?

感じれてないと感じているとき、どんな気分、かんじ?

あたたかい、冷たい、固い、やわらかい?気持ちわるい、心地いい、のどが詰まるかんじ、つまらない、ドキドキする、お腹に力を感じる、不安、むかつく、なつかしいようなかんじ、胸が痛い、怖い、そわそわする、うれしい、恥ずかしい、あの時の感覚とおんなじ、イヤ、好き、きらい、気をそらしたくなる、言葉にできないけどなにかこのかんじ、なにも感じなくていいしなにを感じてもいい、


自分になにが起こってるんだろうと気にするより、
今していることを今しっかりと身体・五感で体験してみて。
そして少しの変化をちゃんとみとめるのはとても大切。これはなにかを育てるときと同じ。

長々と書いたから、マインド寄りになってしまったかもしれない。
なにかが伝わるといいな。
今日はここらへんで。


スタジオウーヌスは2021年セッションをスタートしています!
こころからだすこやかに。

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1月24日日曜日
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クラニオに興味のある方、宇宙エネルギーを感じたい方、
人と関わる仕事をしている方、とてもおすすめです!
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続けること、流れに沿うこと

寒くなってきて、あたたかいものが有り難くなってきた。
おでん、おふろ、お布団・・。
寒いからこそのおいしさ気持ちよさ。

身体があったまるってなんて気持ちいいんだーって改めて感じれる季節。
身体があたたまると気持ちも穏やかに心地よくなる、つながりの実感。

季節によって身体はほんとに変わるなー。
1年の季節の移り変わりと、わたしという命の動き。
それは今回の肉体がはじまって終わるまでの一生の移り変わりという季節。

この両方の季節がうまい具合に働いて自分も地球もすべてのいのちが今あるんだろうとおもう。そしてそれをより活かすのは自分が自分とどうつながっているかなんだろうな。


ダイナミック瞑想を毎朝続けてひと月半ほど。
秋分辺りからはじめて今日は立冬。冬へ入った。

毎朝続けていることがあるからこそ、季節の変化と身体の変化のリンクがよりわかってきたような気がする。

ずっと同じことをし続けることは、わたしにとってそれほど重要じゃないかもしれない。
いまここの流れを感じてそれに沿うことの方が大事だ。

そのサインはどこからきている?
マインド?あまりに納得する巧妙なトラップではない?それとも身体?ハート?


そしてもひとつ大切なことは、続けることと流れと共にあることは極ではないから。いろいろなことにおいてどっちか一方だけ選ぼうとするのはなんなんだろうか。

気づいていよう。

最近、wifiくんの調子わるくてストレス。彼も変化のときなのかな。そんなときはなんやかんやするよりあったまった方がいいですよ。


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それもほんの一部分。

たとえばだれかに嫉妬を感じるとき、そのひとの一部、いま見えてる(と思ってる)ものだけに意識が向く。

自分が欲しいものを相手が持っているから、自分は欲しくないのに自分は持っててそれを相手は持ってないから、それが苦しくて嫉妬する。

嫉妬してるときって、他の感情を感じてるときもそうだけど、ほんとにいろんなことが見えない。
嫉妬って苦しいんだ。
ちょっとでも感じたくないほどに強烈なもので、もういっぱいいっぱいになる。
経験したことがあるひとは知ってる。

嫉妬するなんて醜いって思ってるかな。けれども、
ああ今わたし嫉妬してるなって気づくだけで、それでもう十分じゃないかとおもうんだよね。

強烈な感情を感じたことで自分を判断しないで。
自分を責めれば責めるほど、嫉妬からは離れられない。
それを感じてる自分も自分という存在のほんの一部分だし。(一部分ですらないかもしらん)

なにを感じても感じなくても劣った者じゃないし、もしそんなことを価値基準にしてるならちょっとそれ厳しくないかね?

そして、その今起こってる感情はなにを思い出せと言ってる?

そのひとの全体を感じたとき、それまで感じていたものが変化する。
そのひとの全体を感じるとは、自分がそのひとについて見えていないものも想像してみるということ。

想像ってファンタジーだし・・って決めつけるともったいない。
想像ってすっごいパワーだから!だって嫉妬も想像からきたわけだし。

いま自分の目にどう映っていようが、
それはほんの一部かもしれない、一部ですらないかもしれない、
そんなふうな観方はわたしにあなたに世界ぜんぶにやさしいのではないかしら。


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あっちはこっち

ひとに好かれたいと思ってる、
あんなヤツに嫌われたっていいやって思ってる、
どっちもおんなじ。

あっち側かこっち側かっていうだけ。
西か東か、北か南かみたいな?いえ、ちがう。


あっちとこっちは反対側ではなく、同じところ同じもの。


そうやって極を行き来してることにうんざりしたら瞑想と出会うのかもな。



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くつろぎ、三位一体

寛ぐのがわたしたちにとってなぜ難しいのか。
寛ぐというのは簡単にいうと、無駄な力が無く穏やかで中心にいるような状態。ボーっとしたのは寛ぎとは別のもの、寛いでいるとき意識はクリア。

わりと多くのひとが緊張があることに気づかない。いつの間にか身体に力が入ってる。ちょっとしたことで身体は緊張するしね。緊張が当たり前の状態になってるなら、それは気づくのは難しい。


気づくというのは距離・スペースがいる。そこから離れないと見えない。

まず身体をゆるめるために、身体を締めつけるような物を着ないとか、普段の生活の環境を整えることはとても有効。
身体に意識が向きにくい人ほど、締めつけ感のある下着を着けてるようにおもう。
ブラジャーやショーツ、パンストのゴムが身体を圧迫してる。
本人はそれが普通だから気にならない。
緩んでちゃあ生きていけないんだよ、という無意識の怖れもあるのかな。
だから身に着ける物で自分を縛って、ケツをたたく。何者かになれ、もっと頑張れと。
それに慣れすぎてて苦しいとか窮屈と感じないのかもしれない。
感じてるけどやめられないのかもしれない。

で、このケツをたたいているのはマインド。思考やアタマ。
マインド重視のひとはマインドが王様で身体はその下僕となってる。
だから緩むことができない。いや、緩みたくない!ってかんじ。
いつもON、身体の声なんて聴いてたら計画がすすまないからね。


身体やマインドあるいは心が緩んでくると、締めつけのある下着は着けることができなくなる。不快だから。シンプル。
そして締めつけない心地よい下着を身に着けはじめると、身体やマインドは変わっていく。
どちらからでもいける。


寛ぎは身体とマインドの両方が手をつなぐことで起こる。


マインドが王様で身体はその下僕という関係性の中では寛ぎはこない。
マインドと身体がお互いが仲間だと知ること。
その状態で、元々わたしたちにある寛ぎが顔を出す。

身体を道具にしてはいけない。
身体は神殿。魂が降りてこれる場所。
この神殿がなければわたしたちのこの人生のなにもあじわえない。
すべての存在している意図をもう一度思い出して。

寛ぐというのは身体とマインドとそして魂が、ひとつのスペースのそれぞれのいるべき場所にいてそれぞれの真の力を発揮しているということ。
三位一体。
身体は身体の、マインドはマインドの最大限の力の出し方を。
その道のプロフェッショナルがその道を究めて、それが協力したとしたら。
それは最強。寛ぎとはそんなことなんじゃないか、と。


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いい匂いとどけ

はじまりへの旅、という映画を観た。

いい映画だった。
観た後、なにかが残っててじんわり振動してるかんじ。


興味深い(interesting)と言うな、具体的に話せ、というのはこの映画の中のセリフ。
本の感想を求められたときの場面にそのセリフが出てくる。
興味深いという言葉でごまかさずにちゃんと自分が感じたことを話してごらん、というようなかんじでここでは使われてる。


わたしも時々使ってるな。興味深いって。

感想って、感じたこと想ったことを言葉にすることだけど、感じたことって言葉にすると矛盾がでてくる。うまく言えない。
それは上手に言えないという意味ではなく、感じたままをすべて伝えることはむずかしい。感じることは距離も空間もなにも限りがないから。

でもそれでも言葉にしてみるのは挑戦したくなる。限られた中でどれを選択してどう表すことができるか。文字になにをこめるのか。

だれかの文章を読んでると、そのひとを感じられる。面と向かって話すのとはちがうところを感じられたりする。
だからこの文章もわたしの匂いがするんだろう。
どんな匂いであれ、届いていればうれしい。
いや、いい匂いでありますように。

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