なにかのためじゃなく

くさらずにやろうぜー!ってそんな言葉がでてきた。
くさりそうになってるからやな、ふふ笑

いやあ、くさりたい時もあるわね。
そんな時、気分転換するのもいいけど、くさるのがいちばんいい。

落ち込んだ時にやる自分のパターンをいつもの落ち込んだ時どおりに、
おもいっきりくさってやる!と決めて、
もう知らんどうでもいいって投げやりでも、とにかくトータルにくさろう。


元気になるために、いつも通りに戻るために、そんな気持ちでするのではないよ。
結果求めてやらない。結果求め成果ばかり求めるから、もしかしたら今の状態なのかも。


今起こってることを表現させて。
それが、苦手なこと、避けたいもの、居心地の悪いことでも。

つながるって、あなたの逃げたいものを知って本当に受け容れるってことでもあるの。晴れもくもりも雨もぜんぶ。




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今、もう一度願いにつながる

今日の朝、願い、望みについてふと思った。

わたしの願いは本物かな?

本物って言葉をつかうとなーんか逆に本物ではなくなる気もするんだけど、本物、偽物という対比の中の本物でなくて、
言葉を変えると、

その願いはありのままか?




ある人が、自分がずっと長い間願ってたことが実は本当の望みじゃなかったことがわかったんだって話してくれたことがあった。長い間望みと思い込んでたものと本当の望み、その両方を詳しく話してくれたんだけど、本当の願いを聞かせてくれた時、聞いてるわたしのハートも反応した。その人の本質がその願いには表れてた。



昔、あるOshoの弟子が、引き寄せの法則を伝えるワークをしたいとOshoに申し出たそう。今は多くの人が知ってるものだけど、もっともっと前の話。するとOshoは、コミューンの中でそれを他の弟子たちに広めることを許さなかったという。

欲しいものを得ることは簡単 。けどマインドの望みがどれほど叶っても、わたしたちは満たされない。それぞれの存在が感じるそれぞれの豊かさがある。

わたしたちが欲しいと望んでるものは、どこからの願いなんだろう。お母さんが欲しかったものを代わりに得てあげたいといつの間にか自分の望みと思い込んだのかもしれない。社会で認められるからという理由かもしれない。いやもしかしたら神さまの顔色をうかがった願いかもしれない、こう願えばこうなればわたしはこの世界で生かせてもらえるかもしれないと。



「わたし」というものが強くくっきりする前に感じてた望みはなんだったんだろうか。親や教師、社会の影響を受けていないときのそのままの存在はなにをしたくてこの世界へ来ようとしてたんだろう。



もう一度、魂の願いにつながりなおす。
ありのままの願い。

今、それをじっくり感じてみたい。



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こころが自由な方を

マルガです。

わたしは夢をよくみる。
夢がみせてくれる、暗示、比喩をわたしはすごーく信頼してる。
だからなのか、夢はより鮮明にいろんなことをおしえてくれる。

夢占いとかあるけど、夢の翻訳はその夢をみた本人がするのがいい。



あるひとに言われたとても印象的なことば。
人生に起こることは、翻訳してもいいけど、解釈はしないこと。
解釈するとややこしくなるよ、シンプルがいちばん。

言われたときはつかめなくて、けどめっちゃ大切なことやなとは感じたんだけど、最近わかってきた。


判らないってなんとも気持ち悪いことなんだよね。だからなんとかアレとコレをくっつけて結果を出そう、みようとする。それがあのひとの言ってた解釈なんだろうなと。

判らないことをそのままにしておけるって、成熟度高めでないとなかなか難しい。難しいんだけど、それが自然とできたときって、こころがとっても自由。


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そんなふうに見ないでよ

ひとから言われる自分の印象というものがあるけど、そこにたくさんのエネルギーをつかってきた。

わたしがよく言われるのは、こわいとか強そうとか喋りかけにくいとか。そうゆうのばかりじゃなかったけど、コワイツヨイコエカケニクイ・・にわたしは大きく反応してきた。


ある時はこわく見られないようにしたし、ある時はその言葉に腹立てて、もっとこわい自分でいようとしたり、とにかくそんなふうにみられるのが気に入らなくてさ。

だれかのわたしを見るフィルターをなんとか変えさせようと、わたしはたくさんのエネルギーをつぎ込んだ。同時に、わたし自身も変わりたかった。

特定の見方をしてくる相手に別のわたしを見せようと言葉や態度をつかい、相手の反応を変えようとした。こわくて強くみられてる自分自身がいやで、別の見られ方を得よう別の評価をもらおうと、ひとからの評価や社会の視点が正しいと思い込んで、わたしは自分自身じゃないものになろうとしてた。


長い間、そんなことをしてたんだけど、それなのに、わたしへの印象が変わらん。

なんで?

それは、わたしの本質をついてるから。

相手の表現する言葉やなんでその表現をするかの原因はおいといて、それがフィルターとして。そのフィルターを外してみると、その視点はわたしの本質をさしているんだろうなと思った。いいとこついてるんじゃないのって。


だから、相手も自分も変えようとしても無駄なわけか。

もうあきらめやー、自分は自分やねんから。


表現方法は気にいらんとしても本質をついてるんやろうなと思いだしたら、相手の言葉にそれほど反応しなくなった。へーと聞けるようになった。

わたしたちは自分たちが普段認識してる以外、もっと全体としての存在だってわかってきたことも、きっと影響してる。

だから、わたしってこんなひとなんですってだれかが言っても、へーって真に受けなくなった。


そんなわけで、わたしは第一印象ツヨイ問題への葛藤がだいぶと減り、楽ちんなのです。

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