頭つかうより筋肉きたえよう

頭ではわかってるんですよ・・でも・・。

ほんとはやりたいんですよ、けど、頭ではわかってるんです、だけど、どうしてもできないんです・・。

言い訳みたいなこと言う時、自分をかばおうとするときにつかう。
やれないのは仕方ないんだと言いたいのだ。


けど、わかったほうがいいのは、
頭ではわかってる・・って、それ自体がほんと?ってこと。
だって、頭ってめちゃ頑固だよ。そんな理解あったっけ?

頭(マインド)が、一番わかってないの。
頭(マインド)がやりたくないのよ。


だから、ほんとにやりたいかどうかはまずマインドからはなれてから。


はなれてからそこで感じてみたほうがいい。(そこってあなたにとってどこ?)

言い訳やめようとするより、無理やりやろうとするより、
その感じる筋肉を鍛えるほうがいい。



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お正月は終わったらしい

そういえば今もまだお正月中だなと今日気づいた。
ウーヌスの裏のマンション工事がやっと静かになったのが影響してるのか?
もうそろそろ学校はじまるのかな?とか思ってたけど、もう始まって随分経ってるよね・・。元旦みたいに外も内もなんかすごく静か、不思議な感覚。立春までこれは続くのか?みなさんはどう?



エッセンシャルオイルが好きで、普段の生活の中で、エネルギーをクリーニングしたい時、身体にしっかりつながりたい時、ワークする時など、いろんな場面でつかう。旅に行くときも必ず持っていく。
薬のように、お守りみたいに、植物の命に大きくサポートされていて、その力をめっちゃ信頼してる。


セッションでもよくつかう。わたしはアロマセラピストじゃないから、それをつかってマッサージとかそうゆう使い方はしてない。


ふたを開けてただ嗅ぐ。
香りの分析も起こってることの解釈も放っておいて、ただ嗅ぐ。
香りが必要なことを起こしてくれるので、安心していい。

身体へもどっていくのに、香りはすっごく役立つとおもう。
感情とか記憶とか。その香りが好きか嫌いかってのも身体からのサインだし。

エッセンシャルオイルは超一流のヒーラーなのだ。そりゃそうか、植物だから。自然はわたしたちを癒し、元気にしてくれる仲間。
いいエッセンシャルオイルは、オイルとして抽出されても生(なま)の命のままみたいに力にあふれてる。いいもの選ぼうね。






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ちゃんと辿り着く

セラピストとして自分のスペースをもって独立したとき、身体に触れるセッションとオーラソーマのリーディングの二つをメニューにしていた。


もともと色が好きだった。いろんな色のコンビネーションや色の流れが好き。はじめてボトルがずらーっと並んでるのを見た時、おお!って感動したのを覚えてる。

そのボトルとの出会いからクラスに参加するまで、約10年くらいあったとおもう。なんて長い熟成期間。

わたしはその時、オーラソーマのクラスに参加するか、インテリアコーディネーターの学校に行くか迷って、インテリアの学校に行ったのだ。

2年通うはずだったインテリアの学校は1年でやめた。で、そのインテリア学校で出会った唯一の友人から、その後何年も経ってオーラソーマのティーチャーを紹介してもらってはじめてクラスに参加したという・・。巡り合わせというのか、人生の模様の創られ方っておもしろい。


インテリア学校で学んだことはほとんど覚えてないけど、オーラソーマからもらったものはたくさんある。ひとつは、色のパワー。これはすごいよ。わたしたちは色からたくさんのサポートを得ることができる。色ともっと仲良くなったらいいよ。そして数秘。これも好きだった。自分と関係してる数を理解することは、ちがう側面から自分を知るいい機会だし、生きやすくなるかも。これらはマルガのつながるセッションにも使う時があるので、知りたいことあったら尋ねてちょーだい。あと、人と関わるってどうゆうことなのかとか、教えるということとか、自分にとっての本当・不要とかを、プラクティショナーとしてというより、自分が学ぶクラスの中で解っていった。今の基盤になってる。あの時感じたことをいまだに覚えてたりするから。

本を読んでもわたしはすぐに忘れてしまうことが多いんだけど、その知識を体験すると、自分に残ってるというか身に付いてる。欲張ってたくさん取りいれても、自分にとって必要なものは身になる。安心して、10年後でも出合うもんは出合い、去るものは去るから。




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小さなことをあなどるなかれ~

週に3回ぐらいは銭湯に行く。
お風呂に入るのが小さいころから好き。

わたしは、赤ちゃんのころ湯船に入るといつもうんちをしていたらしい。
なので母はわたしのおしりにガーゼをあてて入っていたって。

その時のことは覚えてないけど、そうなってた理由がなんとなくわかる。
湯船に入った瞬間、気持ちよすぎておもわず声でません?
キバリ系っていうか、ウナリ系っていうのか、奥の方から出るタイプの声。イメージとして、おっさん風。
赤ちゃんはきっとその快がゆえにうんちが出ていたんだろうなって。



わたしたちは、集団生活の中で自由に身体の欲求を満たせなかったとおもう。
授業中じっとしてないといけないとか、トイレに行けないとか、給食残しちゃいけないとか、学校や所属してる集団のルールみたいなものに身体を合わせるように求められてきた。


身体をある特定のやり方で修練して精神を鍛えるというやり方もあるけど、方法からはじめるんじゃなく、身体からはじめる方がわたしは自然な気がするし好みなのよね。


おしっこしたいときにすぐトイレに行くとか、あまりにシンプルな話だけど、そうゆう小さなことが自分とつながるってことに関係してる。難しいこと考えるより、身体の小さな欲求かなえていこう。身体を「快」にしてあげることたいせつ。



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食べる姿からみえるもの

ハロー、マルガです。


この写真は「聖者たちの食卓」より。



食卓ー食べること、生きること
http://www.banyantree8.com/blog/2019/12/post-1584-1482643.html
ギリのこの記事を読んだらインスパイアされて、わたしも食べることについて書きたくなった。
食べるについては、いろいろと感じることがあるけれど、今回のトピックはこれ。


ひとが食べてる姿を見るのが好き。しあわせ感じませんか?
いつでも、だれのも、というわけではないけど、少なくとも汚い食べ方・キレイに食べるとか、そういった判断ではこのことはじゃまされない。



わたしは躾というものをたくさん受けて育った。
出自や、母親のコンプレックス、考え方やいろんなことから、母の日本社会への恐怖と子供への愛情がそんな形として出てたんだとおもう。
とにかくまぁなにからなにまで、躾という名の「こうゆうかたちが正解です」を身につけさせようと。


その躾は、食べる場面においてのこともたくさん含まれていた。
食べてはいけないものが多くあった。食べ方についても行儀良さを求められた。そして母の努力とわたしの努力で、わたしは「キレイな食べ方」ができるようになっていった。


躾とは
行儀が良い
育ちが良い
他者から良い評価を得ている
そうゆうものを得るためにしているなら、それは大変つらい。


食べ方さえも、自由を奪われる、他者の視線を気にしないといけない、ってどんだけ重症やねん、と思いません?


ひとのことをよく見てます、わたし。自分がそうしているとは知らなくて、言われて気づいた。よく見てるねーって。そうか、よく見てるんか。けど、ひとに興味なかったらこの仕事はしてないよな。マルガってほんとにひとが好きだね、とも言われたな。



食べ方ってそのひととなりが表れる。ぱっとした見た目もそのひとのある部分は見えるんだけど、食べるってもちょっと濃いっていうか。そのままが見えるし装ってることもわかる。


けどそんなことよりわたしが感じるのは尊さ。みんな一生懸命生きてるよなってしっかり感じられるの。ああ、そうだったみんながそれぞれの人生を生きてるって改めて思いだす。命は美しいってことをリアルに感じられる。それが食べてる場。その時の自分はまちがいなくあたたかい。人間のもつ善良さと深くつながってる。感謝があふれてくる。


食べるってなんて奥深いんだろう。こうやって書いててもいろんな方向に枝が伸びるみたいに、あっちもこっちもでてくる。
なにを書いたら、どこを書いたらいいのか、わたしはなんて大変なことを書きだしてしまったんや・・って思ってる。食べるって本能だし生きることだし命をつくってることだしね。


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