食べる姿からみえるもの

ハロー、マルガです。


この写真は「聖者たちの食卓」より。



食卓ー食べること、生きること
http://www.banyantree8.com/blog/2019/12/post-1584-1482643.html
ギリのこの記事を読んだらインスパイアされて、わたしも食べることについて書きたくなった。
食べるについては、いろいろと感じることがあるけれど、今回のトピックはこれ。


ひとが食べてる姿を見るのが好き。しあわせ感じませんか?
いつでも、だれのも、というわけではないけど、少なくとも汚い食べ方・キレイに食べるとか、そういった判断ではこのことはじゃまされない。



わたしは躾というものをたくさん受けて育った。
出自や、母親のコンプレックス、考え方やいろんなことから、母の日本社会への恐怖と子供への愛情がそんな形として出てたんだとおもう。
とにかくまぁなにからなにまで、躾という名の「こうゆうかたちが正解です」を身につけさせようと。


その躾は、食べる場面においてのこともたくさん含まれていた。
食べてはいけないものが多くあった。食べ方についても行儀良さを求められた。そして母の努力とわたしの努力で、わたしは「キレイな食べ方」ができるようになっていった。


躾とは
行儀が良い
育ちが良い
他者から良い評価を得ている
そうゆうものを得るためにしているなら、それは大変つらい。


食べ方さえも、自由を奪われる、他者の視線を気にしないといけない、ってどんだけ重症やねん、と思いません?


ひとのことをよく見てます、わたし。自分がそうしているとは知らなくて、言われて気づいた。よく見てるねーって。そうか、よく見てるんか。けど、ひとに興味なかったらこの仕事はしてないよな。マルガってほんとにひとが好きだね、とも言われたな。



食べ方ってそのひととなりが表れる。ぱっとした見た目もそのひとのある部分は見えるんだけど、食べるってもちょっと濃いっていうか。そのままが見えるし装ってることもわかる。


けどそんなことよりわたしが感じるのは尊さ。みんな一生懸命生きてるよなってしっかり感じられるの。ああ、そうだったみんながそれぞれの人生を生きてるって改めて思いだす。命は美しいってことをリアルに感じられる。それが食べてる場。その時の自分はまちがいなくあたたかい。人間のもつ善良さと深くつながってる。感謝があふれてくる。


食べるってなんて奥深いんだろう。こうやって書いててもいろんな方向に枝が伸びるみたいに、あっちもこっちもでてくる。
なにを書いたら、どこを書いたらいいのか、わたしはなんて大変なことを書きだしてしまったんや・・って思ってる。食べるって本能だし生きることだし命をつくってることだしね。


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クリエイション

はろー!マルガです。
ちょっと喋ってたことを残したくて、ここに書く。


どんな世界を創る?




女でいれる場所で生きたい。女で生きたい。

感情は一定じゃない。泣いたり笑ったり怒ったり。感情豊か。
感覚的。身体の生理機能(内側)からも環境(外側)からも影響を受ける。敏感、繊細。
波のよう、バイオリズムとか、季節の移り変わり、四季みたいなもの。
自然とおんなっておんなじ。
女は自然。

自然に生きる。女で生きる。





波があることは、今までの社会では嫌がられてきた。波があるって一定じゃないってこと。
ずっと一定、上向き、ってそれが大切だと思わない。経済、売上がずっとずっと前年比アップ目指すって、なんかどこかおかしい。自分が生きてることはだれかの負担の上、そんなん終わらせる。

海女さんは、海に潜って見つけたもの全部持ってこないんだって。今採るもの、頂くものをちゃんと知ってる。かっこいい。

家族の中で財政つまり豊かさのキーを持ってるのは妻だっていう。妻がゴキゲンさんだったら、その家は安泰だそう。それが家族というコミュニティじゃなくて、もっと大きくとらえられたら。





人には波があるもんだってもし理解していたら、協力がうまれる。協力って力の無いところに力を貸すんじゃなくて、それぞれの力の出し処が最適ってこと。だからそれぞれの色、才能がより開いていく。


それぞれにリズムがあること、それはわかっているようで、普段の生活ではなかなか難しい。 当たり前で自然なことを、わたしたちは抑えてきたんだよな。我慢とか、薬とかを使って。だれかの良い悪いの基準に沿って。

そして自然がなにかわからなくなって。だから自然からはずれないこと大事。自然って、ただの自分。ありのまま、そのままの。自然、自分、女という言葉はおなじ意味。アイデンティティや女性性の話じゃないよ。



そんなふうに見ないでよ

ひとから言われる自分の印象というものがあるけど、そこにたくさんのエネルギーをつかってきた。

わたしがよく言われるのは、こわいとか強そうとか喋りかけにくいとか。そうゆうのばかりじゃなかったけど、コワイツヨイコエカケニクイ・・にわたしは大きく反応してきた。


ある時はこわく見られないようにしたし、ある時はその言葉に腹立てて、もっとこわい自分でいようとしたり、とにかくそんなふうにみられるのが気に入らなくてさ。

だれかのわたしを見るフィルターをなんとか変えさせようと、わたしはたくさんのエネルギーをつぎ込んだ。同時に、わたし自身も変わりたかった。

特定の見方をしてくる相手に別のわたしを見せようと言葉や態度をつかい、相手の反応を変えようとした。こわくて強くみられてる自分自身がいやで、別の見られ方を得よう別の評価をもらおうと、ひとからの評価や社会の視点が正しいと思い込んで、わたしは自分自身じゃないものになろうとしてた。


長い間、そんなことをしてたんだけど、それなのに、わたしへの印象が変わらん。

なんで?

それは、わたしの本質をついてるから。

相手の表現する言葉やなんでその表現をするかの原因はおいといて、それがフィルターとして。そのフィルターを外してみると、その視点はわたしの本質をさしているんだろうなと思った。いいとこついてるんじゃないのって。


だから、相手も自分も変えようとしても無駄なわけか。

もうあきらめやー、自分は自分やねんから。


表現方法は気にいらんとしても本質をついてるんやろうなと思いだしたら、相手の言葉にそれほど反応しなくなった。へーと聞けるようになった。

わたしたちは自分たちが普段認識してる以外、もっと全体としての存在だってわかってきたことも、きっと影響してる。

だから、わたしってこんなひとなんですってだれかが言っても、へーって真に受けなくなった。


そんなわけで、わたしは第一印象ツヨイ問題への葛藤がだいぶと減り、楽ちんなのです。

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約束した日

このひと月ほど、あることをずっと迷ってて。決めきれないことがあった。



実際にはすぐに自分のこたえは出てたけど、
あれやこれやをどうしたらいいのか、あれがこれが気に入らないと、決めれなかった。




さまざまな感情、マインドの声、すっかりとのみ込まれ。
いろんな記憶が出てきて、クリーニングもたくさんした。

そしてその大騒ぎしてる後ろに、静かな信頼があった。

けどわたしは感情の中でぐずぐずしてたかった。感情におぼれるのは蜜をあじわってるようでもあるから。そこを通過することでそのままの感情をわたしは安心して感じれるようになるのかもしれない。



そして、今朝、決めた。


もうこのままぐずぐずのまま・・重たい身体と心のままでいるんかな・・とか、好きで溺れてることも忘れ、夜中に目を覚ましたりしてぐらんぐらんと揺れてたけど。けど。


決めたのよ。

その時がやっとやってきた。


ぎゅーって握ってた力のはいった手。

その力がゆるんだのよ。

手放すって大変だね。決めたからって完全にゼロになるまで手放したわけじゃない。けど強く握ってた手をほんの少しでもゆるめること、それはやった人にしかわからない。それは無理矢理にはできない。自分への忍耐と大きな勇気のいること。愛がないと起こらない。

これからもプロセスは続いていく。完璧なゼロを求める自分も、これから起こることも、受け入れていく。受け入れられない時も。また大暴れがきてもわたしはわたしをやる。わたしはわたしをゆるしていく。そんな大きな大きな一歩。

いまめっちゃ軽やか。ハラが決まった。身体も気持ちいい。世界の美しさがもどってきたよ。


おつかれさん!




もうだいじょうぶ。


今日は約束の日。自分と約束して、存在に宣言した。



決めただけ。

のだけど、なんて晴れやかなんでしょう。



さあ、生きよ。新しい世界。



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自然な姿

2週間のギリシャでのリトリートのあと、パリで1週間滞在して、数日前に日本へ戻ってきた。






ひと月ぶりの銭湯!ああ、たまりません。お風呂好きでよかった、と湯船につかりながらしみじみ。


銭湯ってほんとに平和なんよな。みんなそれぞれのやり方で洗ったりこすったり。みんな裸。隠したり、隠さなかったり。

大好きな場所のひとつ。






ギリシャのリトリートでアクアフローティングするビーチにはヌーディストビーチがあって。

リトリートに参加するひとの中には、それを楽しみにしてるひともいる。


ここも好きな場所のひとつ。




海の中の裸も気持ちいい。





裸は自然。わたしたちそれぞれの形。そのひとがそうである様子。

だからその人にぴったりに創られてる。あなたという存在がその姿かたちを選んできた。

その人として一番自然にできている、本来は。




だから裸から水着をつけるとおかしな気分になるんだよね。

あれ?みたいな。


自然じゃないから、違和感が出てくる。


で、なんか照れたりする。服を身に着けると社会性も一緒に着てしまうのかな。


いままで裸で子供のときみたいに遊んでたのに、いきなり距離ができてしまうかんじ。


おもしろいなって思う。






裸は気持ちいいって話。

いろんな表れ方

創造すること

表現すること

受け身の中で起こるこれらの話。

 

好きって感じる絵や言葉や、動き、わたしが心動かされるものって、なにかしら神聖さのようなものがある。この神聖さっていうのは、清いってことではないよ。いまは他の言葉が見つからないけど、混沌にも神聖さがあるから。その表現者のパーソナリティだけではない本質が見える創造、表現。そこには何者かが加担してる。存在とか宇宙とか神さまと呼ぶような。

 

自分を明け渡す、チャネルになる、空っぽになったところにエネルギーがやってきて、受容の器である表現者を通して創造、表現がうまれる。

 

今日はそうゆう表現についてインスピレーションを感じた日でした。

それはほんと?

今年の1月から覚醒のフィールドのトレーニングをしています。

わたしはオーガナイザーでそして参加者でもある。

めっちゃ楽しいの。

ほんとにすごくいい時間。

このプロセスは来年の春まで続く。

 

 

自分の感覚を信じられないという人いる。結構多い。

わたしは視えてないし、なにも感じるタイプじゃないんです、

というようなことを言う。

 

まじで言うてるのか?謙遜なのか?

まじでそうゆうふうに自分を思ってる人で、

感性を磨きたい、感覚が鋭くなりたいと感じているなら、

最初にすることは、自分が感じていることを受けいれること。

どんなちっちゃなことでもそれに気づく。それを捨ててしまわない。

 

エネルギーワークでもなにかのセッション受けたときでも、

自分の身体や感情や、そのときふと思い出した以前の出来事、どんなものでも、

たまたま、気のせい、で消さない。

 

なにかしら出てきたものを無視することも、

その出てきたものに執着して理由をつけることもしません。

そのまま、起こったことそのまま気づく。

自分が感じたことを、自分で認める。

なにも感じなかったら、感じなかったわと気づく。

 

起こってることをとらえるのに慣れてないだけ。

こんなふうに感じるらしい、こうゆう起こり方するらしい、と固定してるだけ。

わたしはなにも感じないから、って決めつけてるだけ。

 

もし感性を豊かにしたい、けど、自分は今はできていない、

って思い込んでるひとがいたら、やってみて。

感じたことを見つけられたら、褒めてね、自分で。

 

セッションやグループに参加したひとで、こうゆうこと言うひとたくさん会ったけど、ワークがすすんでいくと、みんな本当に活き活きと感じてることシェアしだすよ。感じ方って本当にそれぞれ。それが個性のひとつ。美しいな。

 

わたしは、感じる力みたいなものを育てるのはすっごくいいと感じてる。

わたし自身もそうやって育ててきて、今もそれは続けてる。

ほんとに好きなのよ。感じるということが。

 

で、なんでいいのかっていうと、

それは、

自分で、

体験して!

感じて!

知ってちょ!

 

 

マルガのつながるセッションは、

あなたの感じる力が育つこと、あなたの美しさに気づくことをサポートします。

すでにあるそのお宝を目覚めさせ、あなた自身のいのちを謳歌してください!

 

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