リソースを見つけた

一昨日はギリのニュートラルのワークショップをウーヌスで開催しました。
わたしも一緒に楽しませてもらいましたよん。


グループの中でリソースの話が出た。


わたしは毎日しっかり歩くようにしていて、それはリフレッシュ法でもある。



今日歩いていて、自分にとってのリソースをひとつ見つけた。



わたしにとって、リソースとは元気の素のようなもの。
それに触れると、それを思い出すだけで、ぶわーっとハートが拡がる感覚や、ハラがすわるかんじとか、よっしゃ!って元気がわいたり、自分が愛だと思い出す。



で、今日歩きながらあるひとの顔が浮かんだ。
あ、このひとはわたしのリソースだ!

今まで全然気づいてなかった。でも思い出す度に、ふっと身体が緩みホッと胸が温かくなってたわ。


そのひとが存在してることがうれしい、わたしにとってそんな存在。出会えてよかったな、ああ美しいなってそのひとを感じてたら、涙がでた。




まだ気づいてないものも、自分はたくさんのリソースがあるんだろうとおもう。それは自分が愛されてるってことだ。
自分が大切だと感じるひとたちがいる、自分が愛するひとたちがいる、それこそが自分が愛されているということ。


そのひとの肉体があろうが、もう無くなっていたとしてもどちらでもいい。
肉体として会えないということはどうでもいいことだなって、今日はそう感じた。そのひとの存在があるだけでいい。

もっと深いところでのつながりを感じて、そしたら別れを恐れなくてもいいんだって気づいて、「大丈夫」を全身で感じた。



自分が愛だと思い出せる存在がリソースだと言ったけど、自分にとってリソースも愛。
それは愛だから形を変えても本質は変わらない。




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わかりあえないことがギフトー内なる女性性

母親とはわかりあえないもの、
それを理解したときにわたしはすごく楽になった。


理解しあうこと、はとてもいいことだとおもう。
それが起こればすごくうれしいし素晴らしい。

けど、理解しあうことを求めた途端、理想とした途端から、固くて息苦しくなる。



母親とわかりあえないからこそ、結果として、自分の人生を生きる。

母親とは全くちがう考え方だから、したいことを反対されるから、したいことをしてくれないから、母親の理想を押し付けられるから 、

反抗が起こる。

わたしはお母さんとはちがう!
こうやって独立に向けて準備がはじまっていく。



お空の上で今回の人生を決めてくるとき、母親には自分とは理解しあえない部分をもってるひとを選んできてるんじゃないかなっておもうんだよね。 そうやって協力してもらったんだろうなって。
わかりあえないことは、母からの愛だったなと。
母が理解できない生き方はわたしたちから母への愛。



多くのひとは内側の女性性が母親のままだ。
母親も内なる女性性は祖母のまま。
それは綿々と女性性を受け継いでいるということ。
家系のなにかを繰り返しているということ。


肉体として似ていることはわかる。 でも口ぐせ、態度、考え方、生き方が似てるというのは、自然なこととはおもえない。



肉体のルーツとして母親がいる。
魂としては?




必ず人生の中で母親と自分を切り離すときがくる。 最初はへその緒を切るとき。肉体を離す。 けれど、エネルギー体としては切り離されていない。


結婚したから、仲がいいから、仲が悪いから、距離をとったから、
母親と自分が離れてるかどうかは、これらとは関係ない。

物理的な距離をもつことはひとつのプロセスで、それがきっかけになることはある。
けどいくつになっても母親と離れてないひとはわんさかといる。
年齢とか職業とか関係ない。



母親を自分の内側から追い出さないといけない。
一度も離れたことがないままで、どうやってそのひとを認識するの?
どうやって自分がわかるの?




母親からの本当の独立は簡単だとはおもわない。
でもやらなくちゃいけない。
みんながやらなくちゃいけないと強くそうおもう。


自分を生きること。
それがこの肉体をもらったことの母親へのお礼だ。
母だけでなく、祖母、血の繋がりも超えた女たちへの感謝とリスペクト。
あなたのそのプロセスが過去現在未来の女たちを癒す。




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普通であることーわたしとつながる

毎日の中にすべてのことはある。
気づきも神秘も思い込みも感じることも愛も。

ぱっと現実が変わること。マジカルな変化。
今の状況が気に入らないからさっと思ったように変わってほしい 。
それはみんながどこかで望んでいること。
毎日の中、日々の中に、やってくる突然のマジカルな変化。


奇跡が起こってほしいなら、 それはやはり日々の営みを全身で生きること。
そう言うと、がっかりするひとが多いのだけど・・。

もっと、ぱっと、さっと、って方法ないの?

わたしは知らない。



Oshoはトータルでいなさいと言う。



五感で、意識を拡げて、わたしという存在すべてで日常をあじわうこと。それが奇跡を知るプロセス。
けれど、それはある意味とても地味なことだ。



自分のやっていることにしっかりと意識を向け、
些細かもしれないことに愛を注ぎ、
自分の仕事にエネルギーを込めて、
なんの役にも立たないかもしれないただ好きなことをし続けることを自分にゆるし、
肉体をケアし、
精神に栄養を与え、
ひととの関わりの中で葛藤が起き理解がうまれ、
別れて出会い、
大切なひとに注意を向け声を聴き触れ、
遠くに暮らす愛するひとたちの笑顔を想い、
大切な自分に愛を伝える。


いまがどんな時代であっても、自分がどんな場所にいても、
毎日、自分が大切だと感じることにエネルギーをつかうこと、
目の前にあることを大切にしてプロセスをあじわうこと。
それが祈り。
目を閉じてじっと願うのではなく、その態度が世界への貢献。



ごはんをつくる、食べ飲み、片づけ、仕事、お店でものを買うやりとり、歩く、目を合わせる、話す、おしっこうんち、触れ合うこと、呼吸、感情、 日常の中で、繰り返している起こっているさまざまなこと。

それはいつも同じではないことに気づいてるかな。



自分の体調・気分が毎日ちがうことに気づくこと。
その安定していない自分を知ることはすごく大切なことだとわたしはおもう。
安定してないことが当たり前に自然なことだと。


小さいころから安定=変わらないことを求められてきた。
家庭で学校で仕事場で。
そこはそのための訓練の場だった。
安定していないのはなにかが足りないからだと。
知性、忍耐、注意力、規律、競争。
いまも多くのひとは安定を求めて、職場を決め、居心地の悪い居場所を出れず、心を閉じ込めてる。安定ってほんとにあるの?



わたしたちは不安定の中にいる。
今この状況がというのではなくて、今も以前もこれからも。
moment to moment


変わること、それは別の言い方をすれば不安定とも言えるけれど、それが自然。

自然は変わっていく。自然で変わらないものはない。
木、生きもの、水の流れ、雲、自然はどんどん変わる。わたしも自然。

コンクリートとかプラスティックとかアンチエイジングとか、変化を遅くさせること、そうゆう目的で人工的なものはつくられる。




普通であること 
ordinarity

特別になりたいひとたちは普通が好きじゃない。


普通の日常、
そこが実は特別なすごい場所だと体験することは、
自分が今ここにいることの奇跡を知ること。


アタマであれこれ考えて情報をたくさん収集することの方が遠回りだよ。

五感が開いてくると直感はどんどん冴えてくる。
自分で感じて決めて動けるようになる。
自分にとって正しい時に正しい場所で正しいことが起こっていることがわかるようになる。
自分とつながるってそうゆうこと。







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身体の反応はいろいろ

身体はひとによってさまざま。形はもちろん、目に見えないものも大きくちがう。

去年の春、歯の治療をした。数日間で突然ぐぐぐと痛くなって行ったけれど、その歯の神経は抜かずに済んだ。
その先生はなるべく麻酔を使わずに治療してくれる。それはわたしにとっては有り難いことだけど、その分ダイレクトに痛みを感じる。
ひーひー言いながら、やっと治療が終わった。

神経が落ち着くまで2週間くらいはしみたり痛みも感じるかもしれないけど心配しないでと先生から言われた。

その後、冷たいものも熱いものもものすごい刺激となってた。先生の言ってた2週間が経っても一向に変わらない。1か月経っても全く変わりなし。冷たいの熱いのイヤ。


変な治療を受けたとは思わなかった。ただこれは時間はかかるんだろうなと。
と言うのも、わたしは神経過敏なところがある。
精神的にも身体的にも刺激と判断したものに対して大きく反応しやすい。
「あなたの神経システムと免疫システムはとても知的で精巧だ」と占星術で言われたことがある。ホロスコープってそんなこともわかるんだね。

わたしの神経が鎮まるのには一般的な期間よりも長くかかるんやろうなと思った。
結局、落ち着くまで3か月かかった。どんだけかかんねんとは思ったけれど、おさまってよかった。


先生の言うこと専門家の言うことって力を持ってる。
自分の身体の反応と医者の言うことがちがっていたら、医者の方が正解で身体の方に疑問を向けるようなぐらいに権威には弱い。
わたしはそれはいややなと思う。


日頃から自分のいろんな特徴を感じて生きていれば、なにかだけを妄信することはなくなる。
身体とつながろう。自分のことを知ろう。目を向ければ教えてくれる。



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表現とは受け容れること

朝、ギリがわたしのブログを読んだ感想を話してくれた。
よくくれる。
感想を言ってくれるのは、彼になにかが届いたとき響いたとき。
だからその感想をきくのはおもしろいしうれしいし、異なる視点に感心したり、有り難いしあわせなこと。




表現すること、身体を動かすこと、
これがわたしの心身の健やかさを保つのにかかせない。
そして瞑想。
わたしにとって、表現するというのはこころが動くことの結果のようなもの。
こころが動くから表現が起こる。




これらはわたしの健やかさだけでなく、おそらくほとんどのひとたちにとって自分を健やかにする栄養になる。





わたしの中からこれらが薄まってしまうと、めっちゃ調子がわるい。元気から離れる。

すると、ケンカをふっかけまくるわ、ウツウツとなるわ、食べ過ぎるわで、表現されなかったエネルギーが出る場を求めてこんなふうな表れ方をする。
すんごーく疲れる、知ってる人も多いだろうけど。
使ったエネルギーの倍以上のものが出て行くような体感。

そして逆にここに居続けてしまうということがある、いたくないと思いながらも。
それは、本来のものー健やかさーからズレているから、ここから出るエネルギーが足りなくて、留まってしまうのかもなとおもう。


元気のエネルギーをとり戻すのは、かなりのパワーがいる。
自分がいたくないここから離れるという決意がいる。
決意するということ自体がパワー。

これ、ヒーリングのプロセスとおんなじだな。

変わる、変わりたいという決意が最初にある。
肉体であれ、人生であれ。もうこれ以上うんざりだ!って。
ここでパワーとつながれた。内にあったパワーと。
そして本当へ向かっていく。
治癒にいたるまでの道。




変わるという決意・勇気、身体に意識を向け声を聴き、こころマインドに目を向け、食べ方を見直したり、いままではちがう物事のとらえ方も必要となる、自分という存在に目を向けなにかに気づく必要がある。治癒が起こるにはある程度の時間もいるだろう。

ある面、ヒーリング・癒しというのはだれかにしてもらうことではなく、自分で変わることを決めて、だれかのサポートを受けながら、気づいて、それを実行していくということ。
いままでの習慣を変えていくということ。いままでのその習慣はあなた本来のものとは離れているということだから。


だからね、健やかでいるのはとても大切。
それがわたしたちそれぞれの責任だと内側からの理解が起こるとすれば。


健やかでいることは、わたし自身の為であり、パートナーや家族のためにもなり、自分のいる場所のためにも、世界平和にも貢献する。



自分を癒すことはほんとに大きなことなんだよな。



その癒しのプロセスにおいて、表現はすごくパワフルにはたらく。

そのままに純粋なままに表現が起こることのパワフルさはそれが与えるインパクトは言葉では表しきれない。



そして誤解されやすいのだけど、そのままに純粋なままの表現というのは、すべてが心地いいとは限らない。

心地悪いを感じてそれを表現しようとはなかなかしない。

なんかね、みんないわゆるポジティブが好きなんだ。だから、いろんなことを無意識に良い方向へと向かわせようとする。
結末を納得いくものにしたがる。納得いくものとは、あやふやでなくて、もやもやではなくて、すっきりしたもの。
結果、良かったです!みたいな。

おいしいもの食べたときの、しあわせとか、
あたたかい湯船に入ったときの、んあああーだとか、
言いたいことが言えない、ううう・・だとか、
だれかに話し、色で表し、思わずくそーっと声が出て、
ごはん作って、木に触れて。

そのまま感じるまま動くまま表れるまま。




表現というのは、いまここの状況も感覚も感情もある物も起こることも、すべてを受け容れてるということなんだ。


そのまま感じたままを表してみること。うまいこと書く、綺麗に描く、褒められるように、そうしたいのを横において。そのまま、あなたに今あるまま。

それに身を任せれば、癒しは自然と起こる。表現の本来のパワーが顕れる。





この居心地の良さこの不快さ・・なにが起こっているとしても、
意識を拡げ、ハートを開きハラを感じ、自分を開いて、
今あるすべてをぜんぶ感じる。
そのままをそのままとして。


それはすべて一旦自分の中へそれらが入ってくるのをゆるすということ。

自分を通じて、入れて出ていく。
そう、呼吸のように。



自分という存在全体で受けいれたものを自分という存在全体で表す。
生きてる実感。 いのちが動いてる。







1/24日曜
Be still and know ニュートラルワークショップ

身体をもつすべてのひとに体験したもらいたい!
あなた自身の在り方、ひととの関わり方、あなたと宇宙(存在)、
きっとなにかあなたにとって大切なものを受けとるでしょう。


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自分の仕事がある

母方の祖父はとても賢い人でした。
働いてお金を稼いで家族を養うということはできませんでした。
ひとに雇われるとか自分の時間や労力をお金に替えるということが全くできなかったと。
これは母がわたしにした話。

そんなでわたしの母は金銭的にとても貧しい家庭で育った。
わたしは母からそんな話をたくさん聞いた。

母の祖父への尊敬と内に秘めた軽蔑。
祖父が稼がなかったということ、
同時に祖父が智慧を惜しみなく多くのひとに使っていたということ。


わたしの祖父のイメージは、墨をすっている姿、筆でなにか書いている姿、漢方薬の匂い。白いシャツ。 穏やかで静かな雰囲気。



母から刷り込まれた祖父の生き方へのわたしの観方が、ある時変わった。

それはわたしが仕事というものに対しての観方が変わったことも大きく影響してる。



あるセッションでわたしは母方の祖父の思い込みを受け継いでいると言われたことがある。いままで祖父はわたしにとってそれほど近い存在ではなかったから意外だった。
その思い込みは、「ひとには分かってもらえない」
自分の知恵は普通一般の人にはそうそうわかるまい、というようなもの。
!!んまあなんと傲慢な。
けど、その頃なんかその感覚はとても馴染み深かったんだよね。




わたしの祖父と祖母、子供たちは逃げるようにして韓国の済州島から日本へやってきた。母が生まれる前。済州島ではその村では初めて運動靴を履いたひとで、教育を受けていて、跡取りとして大切に育てられた。

その恵まれた環境から、ほとんどなにも持たずに来た。

祖母が子どもたちを育てるために働いた。

稼ぐことはできなかった祖父だけど、たくさんの同胞に頼りにされていたらしい。
字の読めない多くの人たちは祖父に字を読んでもらい書類を書いてもらった。子供の名づけを手伝ってもらった。智慧のある祖父にいろいろな相談をしにきた。父方の祖父もその祖父のことが自慢だったそう。


祖父は自分の仕事をしていたのだ。


お金を稼ぐことはすごいことだとおもう。それが得意なひともいれば得意じゃないひともいる。いろんな所で何桁稼いだという話やお金とは感謝や愛のあらわれだと稼ぐことはスピの高さのようにも言う。


お金がないのは貧しいとわたしたちの多くは思い込んでいる。
貧しいことは恥ずかしいことだと。お金と豊かさと貧しさがつなげられて考えられてる。
少なくともわたしはそう思って生きてきた。祖父のこともそうゆう目で長い間見ていた。


豊かさ
しあわせ
満足

自分にとってそれらはどうゆう状態なんだろう。

それを見直すのに今のこの世界はほんとにいい場所だとおもう。



ひとにはそれぞれの、そのひとだけの仕事がある。


世間でいう失敗や成功の判断を持ち込めない、義務や責任を超えた場所。

どうしてもやらなくちゃいけないこと。
したくてどうしようもないこと。
あきらめきれないこと。
なにかに急き立てられるように衝動として。
否応なく自分の元にやってくることとして。

わたしにもあなたにもある。



あるとき教えてもらった。

智慧というのはそれを分かち合うひとの元にやってくると。
自分だけのものに独占しようとする人にはそもそも智慧はやってこない。

やってくるという表現をしているのは、ほんとに存在から降りてくるから。

それを分かち合える人の元へやってくる。
智慧はこの世界に必要だから。
それを必要としている人・物・場があるから。

それを仕事という。

わたしだけの仕事がある。

あなただけの仕事がある。



マルガの提供するセッション
サイキックマッサージ



1/24(日曜)
ニュートラル・ワークショップーBe still and know


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タイミングって?

髪が切りたくなった。もう今すぐに切りたい!から電話したけど予約がすぐにとれなかった。
予約まであと3日もある。。。


当日にセッションの予約をいただくことがたまにある。時間さえ空いていればわたしの方はウエルカム。
わたし自身も、なんとなくとかふととかピンときたとかで動くことも多いから、その急なオファーにタイミングが合い、セッションできた時はよかったなとおもう。


タイミングというワードが出た。
タイミングをやたらと気にするひとがいる。なにかがすんなりといかないと今はタイミングじゃなかったと言う。すんなりってどうゆうの?ドラマティックな起こり方が好きなんだろう。一歩を踏み出すのが怖いんだろう。タイミングを言い訳につかうぐらいのものならば、起こらなくてもいいんだろう。

新月の日とか縁起のいい日とか、それも楽しいけれど、
運試しみたいなことで自分の運を計るのはやめて、
やってみたいとひらめいたことは、いま、何度でも、トライしてみよう。

どんなタイミングであれ、すべて最善。なのであれば、言い訳してたって最善なんだけど。
でもちょっと感じてみて。言い訳ばかりしてるとだんだん自分をイヤになってこない?言い訳ばかり言うひとの話聞きたくないよ。



自分のことをイヤって感じるようなことはなるべくしない、
それは最低限のセルフケア。

自分のことを受け容れにくいというなら、自分を嫌ってしまうようなことをまずやめていく。そしてね、あまりに品行方正だと自分のことをなかなか好きになれない。それは守らなければいけないルールがたくさんある。自分に課してるものが多すぎるから。



一生懸命なひとって美しい。
トライできるものがあるっておもしろい。
やりたいことやっていこーぜー。


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サイキックマッサージ

1月24日(日曜日)
ギリが「ニュートラル」をテーマにしたワークショップをします。
ボディワーカー、セラピスト、人と関わる人たちには必須のテーマだとおもう。
瞑想をしたいというひとにも!
ボディワークワークショップ Be still and Know 詳細はこちら


問い合わせはこちら(スタジオウーヌスHP内)

2020ありがとう

2020年、マルガと、スタジオウーヌスと、出会ってくださったみなさんに感謝します。どうもありがとうございました。

大きな1年でした。きっと多くのひとにとってもそうだったでしょう。


今日の午前、今年最後のセッションでした。
セッションが終わり、部屋の窓を開けたら雪が降っていました。
ちょうどウーヌスのある建物を出たばかりのクライアントの方に「雪!降ってるよ!」とベランダからおもわず大声出して話しかけるほど、なんかとてもいいシチュエーションとタイミングがうれしかったから。今日のセッションに祝福がもたらされたようなそんな光景だったな。


そして熱田神宮へお参り。
ここでも大祓の神事のタイミングにちょうど出会いました。熱田さんはいつもあたたかい。雪の中の神事はすごく美しかった。



わたしの2020年はいままで動かなかったことが動いたというかんじの1年でした。

動かそうと自分なりに一生懸命だったこと、気になってるけど手を付けてなかったこと、怖くて触れられなかったもの、めんどくさかったもの、
そうゆう物事がアクシデントやタイミングやらいろんな条件、プロセスを経て、いくつかのことが済み、いくつかのことが始まりました。


その中には何年間も時間を経たものもあり、済んだものも始まったものも両方にほんとに感慨深い。ほんとうにやっとだよ。
もっと他に言葉はないんか?と探すけれど、わたしのボキャブラリーは今のところ、感慨深いとしか表すものが見つからない。じれったいわー。


何年間もワークし続けたことがひとつの終わりをやっと迎えたこと、ほんとにうれしい。終わりという現時点での結果がうれしいということよりも、ここまでのプロセスを体験してきた自分がしあわせだなと感じる。



終わりははじまり。
終わりというのは一時的な目印みたいなもの。
そう、旅は続いているのだ。
わたしは自分の道を歩いている。

あなたの2020年はどんな1年でしたか?



2020年、ありがとうございました。


マルガ

静けさー瞑想ーサイキックマッサージ

サイキックマッサージのセッションを再開して、約2か月。
セッション直後によく言われることのひとつ。

「静か」

言葉の表現は異なるけれど、
アタマの中が静か、
なにも考えられない、
普段の頭の中ってうるさかったんだって気づいた、
静かでなんか変なかんじ、
いつもとちがう、
とても多く聞くセッション後の感想。

サイキックマッサージは瞑想。Oshoの元で育ったワークだから。
ギバーとクライアントと二人でする瞑想。

このセッションで静けさを感じるというのは、とても自然なこと。
クライアントは自身の本質である静けさを思い出した。
静けさを、くつろぎ、安心感、穏やかさと表現することもある。


そのエッセンスを思い出す場を創れることはわたしにとって喜び。やっぱりこのワークはいいなと改めて感じる。


どんなワーク、ツールであっても、瞑想が必要だとおもう。
瞑想という言葉を使うと分かりにくくなるかもしれないけれど、静けさ、寛ぎ、安心感、美しさ・・わたしたち存在がもつ核のような質、それらは瞑想と同じ意味。
それらの質がないというのは中心がないということ。それは愛がないということ。

どんな仕事でも、些細だと思う事柄でも、愛があることが、それだけなんだろうな。

ぱっと見、愛とみえないものもある。
愛なのに愛にみえないなら、それは観てる側のなにかなんだろう。
だから、わたしたちは自分を癒す。愛が愛とわかるために。



写真は畑で採れたさつまいもでギリが作ったスイートポテト。
Made with LOOOVE!

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スタジオウーヌスは、 12月30日が年内最終、年始は1月4日よりセッションを開始いたします。

いのちの顕れ

昨日、表現ワークショップを開催しました。
参加してくださってありがとうございました。
記事をシェアしてくださったり声をかけてくださったり、ありがとうございました。

今回は、クレヨンと水彩絵の具、香りをつかいました。
水彩絵の具は、当日の朝になって、ふとインスピレーションがきて使うことにしました。


準備している間、ほんっとにひさしぶりに仕事の楽しさをあじわいました。
そうだった、仕事っておもしろかったよな!って。
感慨深かった。



表現アートはプロセスワーク。
できあがった絵や作品の出来上がりではなく、自分に起こっていることを感じてそれを表現している過程(プロセス)すべてが、結果的にわたしたちに働きかける。 すぐには気づかないこともある。その場で気づきが起こることもある。なにが起こっても起こらなくてもそれはプロセス、つづいてつながっていく。


色を使っているといろいろな感情が出てくる、描いていると悩み事なんて忘れて穏やかになってる、浄化されたようなすっきりしたかんじ、そんなふうに感じることは、やはり表現のもつ力だなとおもう。



このグループを開催しようと決めてから開催するまでの流れがまさにわたしの表現のプロセスだったと、終わった今、あらためて感じています。




苦手と感じていても得意と感じていたとしても、表現するということはとてもパワフル。表現することへの抵抗があるのなら、なおさらかもしれない。
あくびが止まらなくなったり、とても疲れたり、痛みがでたり、感情が揺れたり、たくさんのジャッジが聞こえるときもある。こんなことして意味ある?ってしつこく声がしたり。そして忘れていた遊び心。信頼。無邪気さ。純粋性。静けさ。大きな歓び。本質が内から顕れてくる。



いのちの顕れ。
描いたその絵ではなく、表現しているその姿にそれぞれのいのちの美しさをみました。



どうぞ今後のプロセスも自分にやさしくしながらあじわいください。
ありがとうございました。 ギリ、サポートありがとう!





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