愛って叫んでもいい

昨日、友人が来て、今彼女が学んでることの練習として、セッションを受けた。





わたしは愛の交流をする

このために生きてるんだってことだった。

なんていうのかな、あまりにするっと身体からでてきたもんやから拍子抜けっていうのか、どこかで使い古されたようなかんじもするし、マインドがもっとすごいもん出せよみたいな欲求もあり、その時はまぁねーってかんじで。


で、友人が帰り、

それもまたさらっと、

それ、わたしずっとやってるやん、って。

セッションでも、メール送るときでも、ごはんつくってても。

あ、わたしは生きたいように、魂の願うままに、今いるんだ。

それを知った。

泣けてくる。

でもね、気づいたときは、ずっと解きたくていつもいつも探してた難しいクイズの答えが実はすでに知ってたみたいな拍子抜けしたかんじで。



新しい出会いではないけど、最近離れててすごく久しぶりに会ったような感覚で、でもそれは新たな出会いで。なぜならわたしが前とはちがうから。 わたしたちは何度もそうゆう出会いを体験してる。理解するってそうゆう出会いのようなものだと感じる。円ではなくて螺旋。まだクリアしてなかったか、まだ知らなかったのか、ではなく、深く高く広く理解が起こってるの。






愛って言葉、ずっと使いづらかった、今も。

言うのも書くのも。出そうとすると一瞬ひるむというか迷うというか。おまえなんかがそんなこと言っていいのーー?って声がどこかからきこえて。


いいの。いいんですよ、愛って言っても書いても叫んでも。

もぞもぞしたって、言葉にひるんだとしても。

おまえなんかでも、あんなヤツなんかでも。

だって、本当のことだから。愛なんだから。

出せない言葉ほど、本当はわたしたちは出したい言葉なんじゃない?

怒鳴ってる言葉の奥にある想いみたいに。

その想いの言葉を出していきたい、そしてだれかのその想いの言葉の存在を知ってあげれるといいなっておもう。


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