上手と下手と審判

今日はすっごく楽しい時間だった。
おいしいごはんとリラックスとあたたかさ。


若い頃、多くの人と交流をもつのは苦手だった。
友だちはひとりでよかった。なんでも話せる友だちがひとりいれば。
実際にいつもそうだった。


それは、気い遣いという質がそうさせてた部分もあるなとおもう。
人のエネルギーばかり読んでるからすぐ疲れてしまう。



でもほんとは、気を遣われる側もとても疲れるんだよな。
気い遣いと一緒にいると疲れるのは、ずっと気を読まれてるから。
こっちにばかり意識や無意識を向けられてるからなんだなと、ある時に解った。

気を遣うというのは相手のためではなく自分の為。
良い人、素敵なひと、と思われるよう、好かれるよう、嫌われないように。




今現在のわたしはコミュニケーションがうまいか?というと、いいえまったく。
けれど、そんなことは重要じゃないのよ。

つながりたいか、つながりたくないか。
表現したいか、表現したくないのか。
やりたいか、やりたくないか、どっち?


上手下手ってほんとはどうでもいいこと。
いつからそんなことに気をとられるようになったんだろう。
どこかでちゃんと知ってる。上手下手のばかばかしさを。
わたしたちはものすごく厳しい審判を内にもってる。
その声を信じ続けることもできるけれど、そうしたい人はいない。


じゃあ、どうしようか。

まずはその審判を見つけること。
そしてその声を聴くこと。
声を聴くのは指示に従うためではなく気づくため。
なにに?





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